天白文庫
作品概要 人物紹介 目次一覧


BL/ファンタジー/R指定




空色の楽師と闇色の王




 ん?
 大丈夫だよ。すぐに帰ってくるから。
 え? それはだめだよ。お前はここにいるんだ。
 そんな顔されると……弱っちゃうなぁ。
 うん。言いたいことはわかってる。
 うん、そうだね。すごく不安だし、緊張もしてる。
 ほら、足も震えているくらいだよ。
 でも、でもね。
 今日は、彼にとって特別な日なんだ。
 だから。
 だから、行ってくる。
 大丈夫。本当に帰ってくるよ。
 だから、いい子でお留守番しててね。
 じゃ、いってきます。

───…

 澄んだ大海の色が反射したような、そんな蒼い空の中に彼はいた。
「シィタ。一曲所望する」
 天界と呼ばれる世界で生まれたシィタという長い耳が特徴の青年は、その世界の王様……天王に仕える唯一の楽師だ。
「かしこまりました」
 シィタは愛用する銀のフルートを横に構えて唇に添える。
 そして彼の声音と同様の、羽のように柔らかな音色が天界中に響き渡った。
「いつ聴いてもいい曲だなぁ」
「あ、ぼくが一番好きな曲〜」
「天王様が気に入られるのも無理ないな」
 天界に住まうすべての者たちは、シィタの演奏する曲が好きだった。そのため、囁かれる数々の言葉に、絶賛以外はない。
 曲が終わると、その唇からフルートを離す。顔を上げれば、天王が満足そうな表情で瞳を閉じていた。どうやら、彼の曲の余韻に浸っているようだ。
 そしてわずかに開いた口からは、当然のような賛美が漏れる。
「相変わらず素晴らしいな。心地が良すぎて眠ってしまうところだった」
 シィタは姿勢を正して僅かに頭を下げると、常套的な感謝の言葉を口にした。
「この身に余る栄誉です。我が君」
 しかしようやく瞼を上げた天王の瞳は不服の色だった。
「堅苦しいな。普段どおりでいい」
 そう言って天王は口端を少し持ち上げてみせる。するとシィタは少年のように破顔した。
「えへへ。すみません、天王様」
「おいで」
 優しく手招きをしてやると、シィタは一つ頷いた。そうして静かに歩み寄る彼を、天王はその逞しい腕で優しく包み込んだ。
「天王様はこの曲が好きですよね? 皆も好きだって言ってくれるんですよ」
「『小波の歌声』だったな」
「そうなんですけど。最近じゃ『ララバイ』のほうで通ってるみたいです」
 青年であるシィタの体躯は幾分細い。天界一美しく、そして剛健な体躯の持ち主である天王にとって、シィタを抱きしめることは赤子を抱くようにたやすかった。
「母親の仕事を奪ってしまうとはいけないな。今度からはそこの窓を閉めるか」
「そんなつもりで作曲したんじゃないですよ。俺は子守唄を知りませんし」
 天界人の生まれ方は二通りある。一つは、性別の違う者同士が愛することにより子が生まれるもの。そしてもう一つが、母樹と呼ばれる、大樹に宿った魂から子が生まれるというもの。シィタはその後者であるため、母親と呼べる存在は何も語らぬ樹であった。
 母樹から生まれたシィタの空色の瞳は天界の人々と同じように澄んだ色をしている。しかし、母樹から生まれる子はかなり希少で、また特殊な能力をその身に秘める稀有な存在だった。他の天界人も地上界の人間と比べれば生体機能はかなり高いが、母樹から生まれた天界人は天性に備わった能力がある。そのため、その命が特に尊ばれた。
「そうだな」
 かくいう天王は天界人ではない。人の身体を模しているが神族と呼ばれる種族の者だ。特殊な能力は当然のように備えており、またかなりの長命である。二十代後半に見えても、もう何百年と生きていた。
 シィタのたおやかな首筋にかかる短い茶色の髪を優しく梳いてやると、彼は微苦笑した。
「ところで、シィタ。あの話は考えてくれたか?」
「会合のことですよね。俺でよければ、天王様とともに」
「ああ。よろしく頼む。お前が共に来てくれれば、魔王も気が楽になるかもしれない」
 シィタが生まれる前から、天界の治安は天王によって保たれている。しかし最近、天界は不可解な天災に見舞われるようになっていた。
 その原因が、魔族の集う世界である、魔界からの影響であることが判明したのだ。それも、被害を受けているのは天界だけではないらしく、他の世界へと多岐に渡っているらしい。
 そのため、天王は他世界の王の代表として魔界を統べる王である魔王と対談することにした。話し合いという、最も平穏なやり方で、この問題を解決するために。
 しかし……。
「魔王様は厳しい方なんですか?」
「ああ」
 レイ=シャロン=メイトレウス。
 現在、魔界を統括している王の名前である。
「長い付き合いだが、いまだにアレの考えていることがわからない。だが、シィタの演奏を聴けば、あの氷の様な心も溶けるかもしれない……お願いできるか?」
「はい。もちろん」
 シィタは微笑んだ。
 天王はそんな彼を見て、滑らかな頬を撫でた。まるで伴侶を慈しむかのような、そんな優しい仕草だった。

───…

「バカヤロウ! 受けるなってアレほど言っただろ!」
 拳をテーブルに叩きつけ、怒りを露わにする青年に、シィタはビクリと肩を震わせた。すると、背後から別の青年がシィタを庇うように抱きすくめ、目の前の青年を嗜める。
「そんなに怒鳴るな。リオ」
 リオと呼ばれた青年は、バツが悪そうに表情を歪ませる。しかし、困ったように眉を寄せるシィタを見て、「悪い」と小さく呟いた。
 だが今度は、リオの隣にいた青年が抗議の声をあげる。
「しかし、シィタを魔界に連れて行くことはできない。天王様に直訴するべきだ」
 この言葉に、その場にいる全員の表情が強張った。
 いったい何事かというと、話は少し前に遡る。
 友人と夕食を共にしていたときのことだ。シィタは数日後に天王の従者として魔界へ同行することが決まったことを友人たちに伝えた。すると、その場にいた全員が抗議の声をあげたのだ。
 そしてそれは当然のことだった。凶暴かつ凶悪な魔族が集う魔界に、母樹から生まれた貴重な存在であるシィタを易々と行かせるわけにはいかなかった。天王の命であるにせよ、簡単に首を縦に振るわけにはいかないのである。
 しかし、シィタは反論する。
「天王様は従者として俺を選んだんだ。一人で魔界に派遣されるわけでもないんだし。大丈夫、心配ないよ」
「ないわけあるかあ!」
 火に油を注いだようだった。リオを含め、他の友人らが挙って反対する。
「どうして魔界への同行にお前が選ばれなくちゃならないんだ! 今回はお前じゃなくてもいいだろう!?」
「それに大丈夫なんて保障はどこにもないんだよ。シィタ」
「今回ばかりは、天王様の命令でも聞くことはできない」
「でもさ、天王様にも何かお考えがあるのかもしれないよ。なんせシィタは母樹から生まれた子なんだから」
「ああ。それに天王様はシィタを寵愛しておいでだしな。我々が抗議したところで、考えを改められるとは思えない」
「でも、魔界には行かせられねぇよ!」
 騒ぎになりかけたそのとき、ある者の提案によって食堂は静まり返る。
「そうだ。リオがシィタの護衛として同行すればいい。お前は天界の中でも戦闘技術が高いしな。適任だと思うが、どうだ?」
 ようはシィタを一人にさせなければいいのだ。天王やその護衛が共にいるとしても、一人にならない保障はない。それならば、絶対に傍を離れず確実に護ってやれる存在を彼の隣に置けばいい。
 適任者として選ばれたリオは納得したように頷いた。
「異存はねぇ。たとえシィタが駄目だっつっても、俺はついて行く」
「リオなら安心だな」
「任せたぞ」
 しかし異存のある者が一人いた。
 シィタだ。
「ちょっと待ってくれよ、皆。俺や天王様が魔界に行くのは魔王様とのお話し合いなんだ。争いにいくわけじゃないんだし。危険なことなんてなにもないよ。それにリオだって、忙しいだろ?」
「バカ! なんでそう考えが甘いんだよ! 危険に決まっているだろ? 低能で凶悪な存在ばかりが跋扈している魔界だぞ」
 リオは憤慨する。シィタの言っていることは間違いではないが、リオの言うことも間違いではないのだ。
「そんな言い方はひどいよ、リオ」
「お前こそ、考えを改めろよ! 魔界はなぁ、お前が考えているような甘い世界じゃねぇんだぞ! 大丈夫なんて、なんで言い切れるんだよ。窃盗や強盗、強姦、暴力、リンチ、拷問なんて日常茶飯事だ。殺しだって平気で……」
「リオ。そこまでだ」
 外野から仲裁が入る。
 頭に血が上っていたリオは目の前のシィタがどんな表情をしているかなど、わからなかった。
 シィタはとても悲しそうにリオを見ていた。
 気まずくなったリオは視線を逸らす。それを見た別の青年が、リオに代わってシィタに言い聞かせた。
「シィタ。リオが言うほどではないが、魔界の治安はここよりはるかに悪いのは確かだ。昔、魔界へと偵察に行った天界の者たちが報告した内容は、思わず目を背けたくなるようなものばかりだった」
「俺も内容は詳しく聞いてないけど、その事実は知ってるよ。とてもひどい所だって、聞いてる」
 そうだ、と青年は首を縦に振った。
「できれば、今からでも考え直して欲しい。口は悪いが、リオだって心配しているんだ。その気持ちもわかってやってくれ」
 シィタのことだ。それはわざわざ言わずとも、わかっているに違いない。
 だが、シィタの決意は固かった。
「それでも、俺は魔界に行くよ」
 もともと強情な性格ではないが、ここぞというときは梃子でも動かないことは知っていた。友人たちは、苦笑交じりに妥協する。
「しょうがないな。なら、リオがついて行くことが条件だ。いいな? リオ」
「当たり前だっての」
 話はまとまった。
 それぞれが再び席に戻ると、またいつものように楽しげな食事が再開された。
 リオがシィタの隣に腰掛ける。シィタは申し訳なさそうに頭を少し下げた。
「ごめん。心配してくれるのは、わかってるんだけど」
「シィタ。俺がついて行ってやるんだから、礼として俺のためにフルートを聞かせろよ」
 リオはぶっきらぼうに言い放つ。しかし、それには確かな優しさが乗っていた。
「もちろんだよ」
 シィタは嬉しそうに頷いた。
 シィタは食事を済ませた後、まっすぐ家に帰った。日はすっかり暮れていて、蒼い空の色には深みが増していた。
 家の中には彼以外誰もいない。あるのは必要な家具と生活用品、そして一人分の食料だった。それでも、シィタは誰もいないはずの部屋の中に入るなり、ただいまと言った。
 彼は上着を脱ぐとそのまま椅子に腰を下ろした。ふぅ、と小さな息を吐く。腹部に手を当てれば、空腹は十分に満たされていることがわかる。ならば、沐浴をしようか。季節柄、外は冷えているし、頬に手を当てれば、冷やりと感じた。温かい湯に肩まで浸かれば、身も心も温まるだろう。
 そう思い立ったシィタは椅子から立ち上がり、湯殿へと場所を移した。
 小さな風呂桶に温かい湯を張ると、シィタはその身から静かに衣類を取り去った。すると、白く滑らかな肌が顕わになる。女性よりも美しい肌に細やかな肢体は、男性としては稀である。それはシィタ自身も感じていることだった。
 ふと、姿見に映る自分を見て、似合わない皺を眉間に寄せた。
「う〜ん。もうちょっと背が伸びれば、リオたちみたいにたくましく見えるのかなぁ」
 同年代の同性のほとんどの者は、シィタよりも頭一つ分は高く、身体つきも逞しい。しかし、シィタの身体つきはまるで女性のように華奢だった。そしてそれに見合うような中性的な顔立ちは、別段美しいというわけではない。だが、温和で柔和な性格を模したかのような、陽だまりの笑顔は天界に住まうすべての者を魅了した。そしてそれは異性だけでなく同性の感情すら揺さぶり、ついには天王の心すらも動かした。
 しかし、残念なことにシィタはまだ、恋をしたことがない。
「くしゅんっ。はやく温まろう」
 これ以上は風邪をこじらせかねないと、シィタは姿見から離れた。
 かけ湯の後、程よい温かさの湯に肩まで浸かると、シィタは長い息を吐きながら、至福の笑みを浮かべた。じんわりと身体に染み込む湯の温かさに、心まで暖まる感じがした。
 そして髪も洗おうと、手を頭部に伸ばしたところでピタリと動作が止まる。
 長い耳に触れたのだ。
 元来、天界には身体的特徴として耳の形があった。地上界の人間と比べて天界人の耳の先はやや尖った形をしている。そして、個人差はあるが少し長い耳を持つ者がほとんどだった。だが、数多の天界人の中でも、シィタの耳は特に長かった。
「魔界でこの耳は目立つかなぁ」
 異世界のことに興味はあった。一口で魔族といっても、それには様々な姿形をした者たちがたくさんいるという。もしかしたら、自分のように長い耳を持つ者がいるかもしれない。そう思えば、特に隠す必要などない。
「案外、可愛いとか言ってくれるかも」
 果たして、そんな奇特な者が現れるだろうか? シィタは自分が発した台詞に苦笑した。天界でこの耳を侮辱されたことはなかったが、揶揄されたことはたびたびあったのだ。
 けれど……。
『好きだよ』
 初めてそう言われたとき、とても嬉しかったのを覚えている。その一言があったから、これまで他の者とは違うこの耳を嫌いになることがなかった。
 それなのに。
「誰だったかなぁ? そう言ってくれたの」
 恩人のようなその者を、シィタは忘れていた。

───…

 数日後。
 天王ならびにシィタの護衛として同行した従者の一人であるリオは、天界とは比べ物にならないほど劣悪な環境と歪曲した空間の中で、例えることのできない気持ち悪さを感じていた。
 魔界という、黒一色で塗りつぶされたかのような暗黒の世界。そして魔界にある唯一の城といわれるアヴィス城の外観は天界の城と同等に立派で上品な造りだったが、中からはドラゴンやキメラを彷彿とさせる怪獣の唸り声が聞こえてきて、不気味さと狂気を漂わせていた。カオスとはこのことかと、身を持って思い知らされる。これで平静を保っていられる者は天王と神族くらいだと思っていたが、平然としていたのは天王だけではなかった。
 シィタだ。
 魔界に着くなり、卒倒してしまう従者が続出した。リオは吐き気がするものの、持ち前の体力と精神力でなんとか持ちこたえることができた。しかしそんな中、シィタは不調を訴えるどころか、倒れてしまった従者に肩を貸し、毅然とした態度で励ましの言葉をかけていた。さすがは、母樹から生まれた子というところか。リオは内心で、安堵の息をついていた。
 中級魔族によって案内されたのはアヴィス城の奥にある客室だった。待遇は歓迎的ではなかったが、案内された客室は上質で、気品に溢れていた。これでもっと照明が明るければ言うことなしだと嘯きながら、リオはソファに腰を下ろした。
 隣には、荷物を整理し終えたシィタがちょこんと腰を下ろしていた。
「よかったね。すぐにお部屋に通してもらえて」
「ああ。環境の違いの所為で、倒れる奴らが続出するって安易に予測できてたんだろうな」
 その倒れてしまった従者たちは、自分たちよりも先に魔族によって別室へと運ばれていった。心配だったが、天王から「安心なさい」と言われてしまえば、この客室で大人しくしているしかない。
 その天王も、天王付きの護衛と共に上級魔族によって別室へと案内されていったため、この客室にはリオとシィタの二人しかいない。
 シンと静かな空間で、シィタはリオに話しかけた。
「天王様、大丈夫かな」
「天王様には俺なんかよりもずっと頼もしい神族の護衛がついているし、神獣も肌身離れずついている。それに今まで何度も魔界に足を運ばれているんだ。大丈夫だろ」
 神獣とは天界に生息する獅子の形態をした獣のことである。中級魔族はさることながら、上級魔族に匹敵する力を持っているため、護衛として付いている者以上に頼もしい存在である。
 リオは続けた。
「それに今、魔族が天王様に害を与えれば、天界どころか他の世界もこぞって魔界を攻めに来るぞ。なんせ、天災の被害を受けているのは天界だけじゃないんだしな……ま、戦争をしかけるつもりなら別だけどな」
 それはないだろ、とリオは笑った。
 すっかり寛ぎつつあるリオに、シィタはここぞとばかりに姿勢を正して向き直った。
「一緒についてきてくれて、ありがとう。リオ」
「なんだよ。いきなり……」
 シィタの真摯な態度に、リオは面を食らった。だが、何を言っているのかわからないではない。
 シィタの純粋さはよく知っていた。それこそ、幼い頃から一緒にいた友なのだから、知らないわけがなかった。だが、改めてそう言われると照れくさいものがある。
「まったく、ありがとうじゃ足りないっての。だいたいなぁ、お前が魔界に行くって言わなければ、こんなことにはならなかったんだよ」
「う……でも、天王様からの命だったし。それに一度は異世界にも行ってみたかったし……」
 しゅん、とシィタの長い耳が垂れるように下がった。それに連動して、眉もハの字を作り、困った表情を浮かべていた。
 可愛かった。
 昔から純粋で、優しくて、素直で、いつも陽だまりのような笑顔で微笑んでくれるシィタ。別段、美しい顔立ちではないのに、今のように、素直に表れる困った表情は愛らしく映った。青年へと成長した今でも、それは変わらなかった。
 リオはたまらなく、シィタを愛しいと感じていた。それも、今日だけではない。彼は常日頃から、シィタを愛しく思っていた。
 リオはシィタに懸想しているのだ。たとえ、それが自然の摂理に反していたとしても、リオはシィタが好きだった。
 なぜ、同性を愛してしまったのかはわからない。精悍で逞しく育ち、その上端整な顔つきに生まれたリオの、天界中の女性からの人気は絶大だった。愛の告白を受けた数も、一度や二度ではない。それなのに、リオはシィタを愛してしまったのだ。
 しかしながら、天界で同性を愛することは、別段おかしなことではなかった。先代の天王が愛した者も同性で、永遠の愛を誓ったことを皆から祝福されたといわれている。リオが抱く恋心も、別段隠す必要などなかった。
 シィタを愛した恋敵が、敬愛する天王でなければ。
 天王はシィタを寵愛していた。もちろん、楽師として傍に置いたのは、母樹から生まれた尊い存在であるシィタを護るためである。しかし、傍に置きたい一番の理由は他にあった。
 友人たちはリオの想い人が誰であるかなど、とうに気づいている。しかし、リオは天王に、そしてシィタ自身に自分の恋心を悟られるわけにはいかなかった。
 リオは自分の恋心に気づいたと同時に、天王には敵わないとそうそうに諦めていた。
 そして彼は歳が変わる事に膨らむ感情を抑えながら、これから先もシィタの友人として傍いようと心に決めていた。
「ま、せいぜい大人しくしてろ。それから、移動するときは俺の傍から絶対離れるなよ。無事に天界に帰りたければな」
「もう子どもじゃないんだから大丈夫だって。それに、いくらこの城が広くても迷子になんかならないよ」
「何言ってやがる。方向音痴のくせに」
「それは子どものときの話だろぉ!」
 たまらなく愛しい存在は、長い耳の先を真っ赤にして怒りを露わにする。しかしそれすら可愛い。
 平穏な、いつものやり取りに、ついつい楽しくてリオは忘れていた。
 ここが魔界であるということを。

───…

「え、迷った?」
 シィタは全く緊張感のない声でそう呟いた。
 しかし、現実は容赦なくその事実を突きつける。
 シィタはカオスに陥っていた。なぜそうなってしまったのか、彼にはわからない。気づけば、そうなっていたのだから。
「うわわっ。リオに怒られるっ」
 目の前は広く薄気味悪い廊下だった。もちろん、アヴィス城内である。
 なぜ、自分はこんなところに一人でいるのだろう? 右を見ても、左を見ても、周りには自分以外、誰一人としていなかった。
 じわじわと迫る焦燥感に駆られながらも、シィタは自分の身に、いったい何が起こったのかを思い返してみた。
 あれは客室にいたときのことだ。シィタがリオにからかわれている最中、二人の下に天王付きの護衛の一人がやってきた。天王の命で、シィタを呼びに来たのだ。シィタはさっそく仕事だと気持ちを切り替え、リオとともに天王の下へと場を移した。
 そのときだった。護衛とリオを先導にしていたシィタは、一人逸れてしまったのだ。
 今が昼なのか、夜なのか、朝なのかさえわからない暗黒の世界に照らされるのは、月の光だけだ。アヴィス城に人工的な照明は設置されているが、足元が見えるだけで辺りはぼんやりと薄暗い。
 だからといって、迷うだろうか? 子どもならまだしも、シィタは二十年近く生きている青年だ。脇目も触れず、先導する二人の背中を追っていたはずだった。なのになぜ、迷うことがあるのだろうか?
「方向音痴にもほどがあるよ……」
 あれだけ啖呵を切った手前、かなり恥ずかしい。シィタはとぼとぼと城内をさ迷った。元いた客室に戻ろうにも、それがどこにあるのかさえわからない。
 角の生えたリオと、腹を抱えて肩を震わせる天王の姿が目に浮かぶ。
「どっちも嫌だ……」
 涙目にもなってくる。
 とにかく前に進んで、誰かを見つけようと心に決める。彼は人差し指をあちらこちらに向けながら城の中を見渡した。同じような部屋をいくつも目にする。窓は見つけられても、外へと通ずるドアは見つけられない。それは言わずもがな、迷宮だった。
 しかし不思議と恐くはなかった。天界の者なら発狂しかねないほどの闇の中を、彼は物怖じすることなく、前へと進んだ。
 だが、おかしい。一向に誰とも会わないというのは、一体どういうなのか? これだけ広い城内なのだから、一人くらい誰かがいてもおかしくはないはずなのに。それどころか、何の気配も感じられないのはなんなのか。
 さすがに、シィタも不安を抱く。この城には自分一人しかいないのではないだろうか? そんな錯覚さえしてくる。
「本当に、誰もいないのか?」
 口に出してみても、返事は返ってこない。嫌な予感が脳裏をよぎる。同時に、妙な頭痛が彼を襲った。
「う……っ?」
 キィンと嫌な旋律が奏でられるかのように。
 眩暈がする。ふらりと、身体がよろめき、反射的に壁に手を伸ばした。
 カチャ……。
 シィタは何かに触れた。冷やりとする金属製の何かに。そして覚えのある感触がその手の先にあった。
「ドアノブ?」
 特にこれといって特徴のないドア。鍵穴もなければ、頑丈そうにも見えない。しかし、先ほどから目にしてきたどの部屋のドアとも異なったデザインのものだった。シィタは率直に、このアヴィス城には不似合いなドアだと感じた。
 しかもだ。この先に、気配は感じ取れない。いや、何も感じられなかった。
 周りを見渡すと、ここ以外の部屋はなかった。そしてやはり、誰もいない。
「ノック、してみようか」
 いつのまにか、ここには自分とドアだけしかなかった。どこへ通ずる部屋なのかはわからない。だが、この一人の状況を打破するためには他に道もなさそうだ。シィタはドアをノックしようと、しかし控えめに手の甲をかざした。
 刹那。冷やりと、背筋が冷たくなった。
 バッ、と素早く振り返ると、誰かがいた。周りが暗くてはっきりとはわからない。しかし、目の前に誰かがいるということだけはわかった。
 シィタは声を掛けようと口を開こうとした。だが、その前に向こうが尋ねてくる。
「誰だ?」
 シィタの周り全てが凍てつくような、低い声。だが、一度耳にすれば忘れられない玲瓏な美声でもあった。そこから判別するに、性別は男。それも、まだ若い。この城の者だろうか?
「誰だ、と聞いている」
 もう一度尋ねられた。
 同時に、凍えてしまいそうなほどの冷気がシィタの前方から漂ってくる。つまり、目の前の男の方からだ。それも、じわじわと滲むようにこちらに向かってきている。
 前方の男がこちらに近づいてきているのだ。
 ブルリと身体が震える。「はあ……」と短く吐く息も、目に見えてわかるくらい白く表れた。尋常ではない冷気だ。これが男の、魔族の特殊な能力なのだろうか。シィタは身体を冷気から護るように、両腕で自身を抱え込む体勢をとった。おそらく、上級魔族だろう。それも、かなりの力を持った権力者だ。
 音もなく、こちらに男が近づいてくる。そしてだんだんと、人型も見えるようになった。身長はリオよりも高いが、決して大柄ではない。もうかなり近くに来ているというのに、服装すら判別に難しいのは闇と同色の黒色を身に纏っていたからだった。
「貴様、口が無いのか?」
 いつまで経っても応えないシィタに、業を煮やしたのだろうか? しかし、美しい声音からは不機嫌さは感じられない。まるで、シィタのことなど、どうでもいいかのような口ぶりだった。
 シィタは、名を名乗ろうとした。だが、うまく声が出せない。震えて身体が言うことを聞いてくれないのだ。そしてそれが、相手の力に圧倒されているのだということに彼は気づけなかった。
「あっ……」
「まあ、いい。名を聞いたところで、覚える気はないからな」
 コツリ、と音がした。
 ビクンと肩が竦んでしまう。恐る恐る、顔を見上げてみれば。
 恐ろしいほど美しい男が立っていた。
 天王も美しい男だが、この男はそれとは違った。
 男は首筋までの長さの光沢のある黒髪だった。言うなれば、烏の濡れ羽色だ。体躯はスラリとしたラインを描いているのに、シィタと違い頼もしさを感じる身体つきをしているのが服の上からでも読み取れた。日に焼けていない肌の色は、シィタとは違う肌色だった。なおかつ、健康そうにも不健康そうにも見えるのに美しいとしか表しようがない。また、男の顔立ちは綺麗だった。すっと伸びた鼻筋も、形良い唇も、シュッとした顎のラインも、切れ長の眼も。どのパーツも造られたかのように端整なものだ。
 そしてゾッとするほど恐ろしく感じてしまう美しさ。男に睨まれただけで、心臓が止まってしまうのではないか。そう感じてしまうほどだ。それは男の瞳の色にあった。
 どこまでも深い、闇の色。見た者全てが、まるで吸い込まれてしまいそうなほどの、底のない黒色の瞳をしていた。
 シィタは身体が動かなかった。金縛りにでもあったかのように、ピクリとも動かない。彼も、男の闇の瞳によって堕ちてしまったのだろうか。
 しかし、男も動かなかった。先ほどまで冷気を放っていた男は、その力を放出することをいつのまにか止めていた。
 時間としてわずか数秒。
 男は僅かに、瞠若していた。そして、シィタを見つめ続けている。
 シィタもまた、男を見つめたまま動かない。彼の表情はというと、文字通り固まっている。驚いたように目を見開いたまま、彼は動かない。
「名は?」
 男がもう一度、口を開いた。その声音には、幾分緊張が張り詰めていた。
「お前の名は、何と言う?」
 シィタはハッとして応えた。ようやく目が覚めたかのように。
「シィ、タ……シィタと……申し、ます」
 ぎこちない返事だったが、シィタはなんとか言葉を紡いだ。名乗り終わった後、彼はぎくしゃくとぎこちない動作で頭を下げ、顔を隠した。
 すると、男はシィタの名を反芻し、「そうか……」と短く切った。そして、俯いたままのシィタに、スッと手を伸ばす。
 シィタに触れそうになった瞬間、大きな声が廊下中を駆け抜けた。
「シィタ!」
 ハッとする。シィタは自分の名を呼ぶ何者かへと視線を向けた。同時に、男もそちらへと視線だけを向ける。
 そこには、息をせき切らしているリオと、眉間に皺を寄せている天王がいた。どうやら、叫んだのはリオらしい。
 辺りを見渡せば、そこには先ほどのドアがなかった。いや、そもそも場所が変わっていた。いつのまにか、シィタはリオたちを見失った場所にいたのだ。
 すぐさま、リオがこちらへと駆け寄ってくる。
「リオ……」
「馬鹿野郎! 俺から離れるなって、ついさっき言ったばかりじゃねぇか! 何してんだ!」
「あ、ご、ごめん……俺……」
 あまりの剣幕に、言い訳すらできない。シィタはリオを心配させてしまったことをひどく痛感した。「ごめんなさい……」と、小さく謝罪する。
「リオ。そんなに怒鳴るものではない。シィタも無事に見つかったことだし、それにこちらも見つかったことだしな」
「天王様……」
 後からこちらに歩み寄ってきた天王は、リオをやんわりと嗜める。まだ興奮状態が治まらないのか、リオは顔を真っ赤にしたまま、一歩下がった。そしてシィタを護るように、自分の後へと彼を下げる。
 天王は毅然と、そして悠然として、あの男の前に立ちはだかった。美麗の二人が並ぶと、迫力があった。下がっているというのに、シィタは威圧感で押しつぶされそうだった。
「魔族たちが貴方を探していたぞ。私が来たというのに、いったいどこで何をしていた?」
「来いと言った覚えはない。歓迎した覚えもない。何も話すことなど無い。さっさと帰れ」
「そうはいかない。こちらも、遊びに来たわけではないのだからな。まあ、シィタを見つけてくれたことに関しては礼を言わせてもらうぞ……メイトレウス」
 メイトレウス。
 今、天王は確かにそう言った。この美しい漆黒の男に向かってそう言った。
 シィタは瞠若したまま、メイトレウスと呼ばれた男を直視した。すると、男もこちらの視線に気づいたのか、鋭い視線でシィタを睨みつけた。
「ここはオレの城だ。そこの餓鬼には首輪でもつけて躾けなおしておけ。次はない」
「生憎、首輪は持っていないのでな。しかし、しっかりと言いつけておくよ。それで容赦してほしい」
「このオレに赦せだと? ふざけたことを抜かすのだな。オレは……魔王だぞ」

1


續ク




作品概要 人物紹介 目次一覧
↑ページ上部