Bedlam
偏執的情慾症候群
BL/ML/ダークシリアス短編集
タナトスの楔
誰とも関わりたくないし、誰にも触れられたくない。
突然の侵入者は力尽くで僕を捻じ伏せて、ぎりぎりで保たれる僕の精神を食い潰した。
お願いだから誰も……僕を生かそうとしないで。
僕の人生最大の汚点は、この世に人として生を受けたことだ。
僕は自分が嫌いだ、そして人間が嫌いだ。この世の全てが嫌いだ。何故生きなければならないか。何故生き続けるのか。僕は何時もそれだけを考えて、くだらないこの世界で不本意にも息をし続けている。ならば終わりにしてしまえばいいと誰もが謂うことだろう。無論、僕はそうした。こんな世界に生きているより地獄でもいいから落ちてしまえと、寧ろ地獄にさえ興味があったのだから都合がいいと……。
だけど、世界はそれを許さなかった。
僕は生きていた。気付いたら病院に居て、白衣姿で群がる人間達に頼んでもいない治療を施されていた。迷惑な話だ、そして情けないことだった。
僕は俗に謂う“死にたがり”に分類されるらしい。それは僕自身“死にたい”とも、まして“死のう”なんて思って事を起こしたわけではないからだ。 僕はただ人間を止めたかっただけ。人という枠に囚われ続けることに何の意義も見出せず息苦しさを感じていただけ、それだけの理由だった。
僕は自由になりたかった。柵だらけのこの世界に愛想を尽かして、自分がどうして人として生きているのかも分からないまま、のうのうと無駄に、だらだらと無意味に毎日を過ごすのはとても耐えられなかった。それなら一層やめてしまえばいいと、それで自由になれると思ったのに世界は許してくれなくて、僕を現実に引き戻してしまった。
何の為に……僕は一体何の為に生きてるんだろう、誰の為に生きるんだろう。
どうして僕は生かされるのか。
どうして世界は僕らを生かすのか。
世界──それは僕が未だに否定し続ける神という存在そのもの。僕らを生かすも殺すも彼の思い通り、思惑通り。全ては作られたシナリオで、僕らはそんな一種のゲームの様な、暇潰し程度のレールの上を歩かされているんだ。なんて滑稽なんだって、勝手なんだろうって思う。どうしようもなくそれが許せなくて、僕はどうしたって逆らいたくなるんだ。だからその報いを受けた。
あの時僕は失敗したんじゃない、失敗させられたんだ。僕は悪くない自分を責め立てて、そんな見えもしない力に左右されてることに、ますます被害妄想を肥大させた。
それまでの僕は今では口にするのも嫌なくらい、吐き気のする人間だった。
中学までの僕は孤立するのが怖くて、仮令違う考えを持っていても誰かの意見に賛同して周りに合わせてた。自分では思い当たらないくだらないことで無視されても、相手が悪くて喧嘩しても、どんなに理不尽であっても僕から謝った。誰かが嫌な顔をするより、自分が我慢した方が手っ取り早かった。好く思われたかった。そうして僕の知らないとこで、僕のストレスは肥大していった。
僕はインドアな生き物だから、溜まった鬱憤を晴らす方法なんてたかが知れてた。それ以前にストレスを感じたことなんてなかったし、原因だって分からなかった。僕は馬鹿で鈍感だった。
自分を欺くことがストレスの原因だって気付いてから僕は、全てに面倒臭がりになった。明るく振舞って愛想笑いするのも、無理に喋ることも面倒になって、だんだんと上っ面だけの人付き合いが馬鹿らしくなって人の習性に嫌気が差してきた。
僕はそれまでの自分を後悔した。しなくてもいい媚を売って無駄に時間を潰してきたんだって、僕は僕を嫌い始めた。そして世の中も嫌いになった。こんな汚い世の中で息をし続けるなんて御免だった。僕自身が人として存在してることにも我慢の限界で、全部無かったことにしたかった。
それからの僕は偽るのをやめた。でもどうしたって人と関わらなくちゃいけなくて、僕はその為の人物を演じる必要があった。それは僕の脆い精神を守る為だったけど、逆に追い詰める根源にもなっている。
高校生になった僕はいつも独りでいた、それが楽だった。騒がしいのは元々苦手だったし、何より奴らの思考が僕には理解出来なかった。取るに足らないことで怒ったり、まるで宇宙語でしかない崩れた言語。僕は冷ややかに眺めながら、低俗社会を哀れみ蔑んでいた。そんなだから友達という存在も余りいなかっ たし、特別作る必要のないものだと思っていた。僕にとっては必要であるかどうかが大事だったから、そうでないならいらなかった。欲しいとも思わなかった。
僕は生きてる実感なんてものは持ちたくなかった。だから引き篭ってた。今じゃ昼間の明るい空も忌まわしくて、小さい頃には怖がってた静寂の夜ばかりに浸って、依存して、無駄にパソコンを弄ってるだけで良かった。お陰で良好だった視力は急激にがた落ちした。
僕は学校での毎日を、本を読んだり、窓の外を眺めたりして過ごしていた。周りに誰が居ても僕はそれを遮断して、僕独りの世界を作る。それが得意でもあった。それでも余りに五月蝿い時は、同じ敷地内でも校舎とは独立した図書館に逃げ込んで静かな時間を得ていた。
学校での僕は空気のような存在だ。いや、そのものと謂っても過言じゃない。だって誰も僕を見ないし、僕を僕と認識もしてない。家でも同じだった、両親は僕を見ない。ずっと、幼い頃から僕を蔑ろにして、始めからいないものだって接する。居るようで居ない存在、居ても居なくても変わらない存在、それなら居る必要もない。
なんで僕は生きてるんだろう、何の為に生き続けているんだろう。もし神様がいるとしたら、僕は手にしたナイフを彼の胸に突き立てて、僕を産ませた理由を延々問い質しながら、苦しみに喘ぐその姿を眺めて嗤ってやるんだ。莫迦にして、莫迦みたいに大笑いして、僕という存在を後悔させてやるんだ。きっとそうやって得たものも、僕にとっては無意味なものなんだろうけど……。
今日も僕は本を読んでいる。高校生になって掛け始めた眼鏡はこういう時にしか活用せず──僕には鮮明に世界を見渡す方法はいらなかったし、いつだって蜃気楼のように暈けてた方がいらない不快を感じなくて済んだ──僕はケースを常に持ち歩き、狭まる視世界に執着していた。鬱陶しい夏の暑さに負けず劣らずの五月蝿い蝉の巣から抜け出して、僕もまた図書館で本の虫となっていた。くだらない話に花を咲かせるクラスメイト達の横を通り過ぎる度、「誰だっけ? あいつ」なんて言葉を聞く。それは僕自身が一番知りたがっていることだと、自嘲に思うだけだった。
図書館に来ると僕は大抵窓際に坐った。でも夏は日差しが眩しくて好まない。だからこの時期だけは日差しを避けるよう少し離れた所に坐った。
だだっ広い空間に並べられた机と椅子、たかだか学校の図書館だというのに膨大な本の量、活字中毒者には最高の穴場だった。といっても、今まで通い詰めた中で僕以外の誰かの姿は一度も目にしたことはなく、たまに見掛けるのは定期的に訪れる司書くらいだった。
量があるとはいっても所詮は学校付属。ジャンルに偏りがある上、最近巷では思春期向けの携帯小説なんてものが流行っていて昔ながらの文体は余り好まれなくなっている。お陰で世の若者の活字離れは急行列車の如く、嘆きの末路を辿る一方だ。その方が貸切状態で僕には有難いけど。
僕は図書館に来ても其処にある本には手をつけなかった。教室でも自分の家から持ってきたものを読んでいた。だって此処には当たり障りのないものばかりで僕にはつまらないから。最初の内は読んでいたけど、刺激が無さ過ぎて満足しなかった。
僕が読むのは主にノンフィクションばかりで、それも虐待や殺人犯の生涯など、所謂“歪んだ”小説ばかりだった。ニュースではよく、罪を犯した少年少女らがホラー漫画やオカルトの類を読んでいたりすると警察やマスコミはそれが原因ではないかと疑うが、馬鹿馬鹿しいことだと僕は思う。そんなものを読まなくても罪を犯す奴は五万といるし、しない人間はしない。寧ろ読まない奴がどれほどいるか知りたい位だ。現に僕は犯罪者じゃないし、単に興味があるから読んでいるだけで作り物では味わえない感覚を得ているに過ぎない。まあ実際に学校の図書館にそういう類のものがあったりしたら、青少年の犯罪への助長だとか教育に悪いとかって、あれこれ問題になるんだろうな。
あれほど騒がしかった蝉の声も流石に聞こえず、図書館はとても静かで冷房も効いているから快適に過ごせる。僕は時間を忘れて読書に没頭していて、気付いた時には授業が始まって十五分を経過していた。
このままサボろうかな──窓から見える外界の様子を覘いた僕は読んでいた本を閉じると眼鏡を入れたケースを除けて、その上に両手を重ねた腕を置いて突っ伏しながら顔だけを再び窓の外へと向けた。
夏はすごく怠い。僕の場合はそれ以外の季節もだけど、暑いというだけで元々無いやる気を削がれる。だらだら無駄に汗を掻いて肌はべた付いてシャツは吸い付くし──僕は夏だろうが冬だろうが制服のシャツは長袖仕様だった──教室なんて狭い箱の中に詰められてたんじゃ息苦しくて仕方ない。こんな避難場所でもなければ、ネットカフェにでも行ってサボってるところだ。
「はあ……」
湧いてくる。暑さに駆られた虫たちが根城にする掃溜めの腹から這い出して、ざわざわと脳内妄想を繰り広げた。
僕のような"死にたがり"の思考は常にスプラッシャーが流れていて、作り事のスナッフビデオだった。この息の根を止める事を望んで自分を裂く事を願い、人が裂かれる様を想像して赤黒い視界で埋め尽くす。虫たちはさぞかし大喜びで、かりかり音を立てながらそれを餌に喰らい空腹を癒すんだ。その度に僕の中の黒い塊は膨張して、今在る僕に取って代わろうとする。当たり障りのないこの僕を、もう一人の僕は忌み嫌っていた。それは解るし楽な結果を呼ぶけど、二度の失敗も後悔もしたくなかった。
窓の外は太陽がじりじりと焼け付く砂漠。さしずめオアシスにいる僕はちっぽけな幸福に優越を感じ、宛ら上流階級と貧困の差を体感しているようだった。だけど眩めく射光は容赦なく僕に迫っていて、奴らとのボーダーラインをあっさりと越えた。
「なんで──」
「なんで夏ってこう暑いかねぇ……」
零した僕の愚痴を掻き消して、真正面から降ってきた重低音の声は予期せぬものだった。
皺だらけの白衣の袖を肘まで捲り上げ、覗くのは筋肉の張った黄色人種特有の肌の逞しい腕。緩めたネクタイとよれたシャツの襟元は肌蹴てだらしなく、机に肘を着いて支える顎には極めつけの無精髭がある。掛けている黒縁眼鏡は妙に違和感があって、正直似合ってるのか似合ってないのか微妙なところだ。前髪を適当に後方へ流した短髪は整えてるようで乱れていた。
上体を起こした僕は怪訝に彼を見ていた。いつの間に、いつから此処にいたのか全く気付かなかった。彼は至極当たり前のように僕の向かいの席に座っていて、真夏の陽光を取り入れるガラス窓をうんざりした顔で見ていた。周囲に関心なんて持てない僕には、果たして彼が何者なのか分からなかった。白衣を着てるということは生物か数学か、これで養護教諭だったら少し引く。
僕にとって人間なんてその他大勢、オペラ座の怪人みたいに真っ白な仮面を付けた心までも醜い塊でしかなかった。孤独に怯えて本当の自分を押し殺し、精神的ストレスを溜め込んでも集団生活から抜けられない。個人は理不尽に攻撃されて、間違ってないのに正しいとされるのは多数意見。そんな不条理で短絡的な生き物に貴重な意識を向けられる筈も、まして興味なんて持てるわけがなかった。
僕の心臓が大きく一つ鳴った。見据えていた横顔がふいに正面に向けられて、覚えのない彼と目が合った。はっきりした男臭い顔は渋味があって、でもやっぱりオーバル形の黒縁眼鏡は妙に浮いてる気がした。
「何読んでんだ?」
「え?」
「それ」
彼は机上に落ち着いている僕の腕を指差した。その両手の下には今読み進めている文庫の小説があって、紙製のカバーが掛けられているせいでタイトルは見えなかった。
僕はてっきり教室に行くよう注意されるのだと思っていた。恐らくこの人が学校関係者だろうと推測した上でだけど、授業が始まっているにも関わらずこんな寂れた図書館で堂々とサボっている生徒を見つけたら、説教交えて第一声はその筈だ。ところがこの人は僕の予想に反して、通常他人が気にも留めないようなどうでもいい事を拍子抜けする位まともに聞いてきた。
両手を除けて僕は何も言わないまま──彼が何者かはっきりしない内は言葉を交わすどころか口を利こうとも思わなかったし、常日頃から警戒心ばかりの僕は迂闊に他人と関わろうなんて考えもしなかった──表紙側のカバーだけを外して彼の前に見えるようにして掲げた。
「そいつは今時の若人が見ていいもんなのか?」
内容の事を言われているのか何なのか、「活字離れした若者が理解できるものなのか」と問われているようで、それに対して僕はどうしたって口を開かねばならなくなった。別に反論の意を込めたわけでもないけど。
「読んじゃいけない、決まりも無いですから……」
視線を外してカバーを戻す。どっちの意味でも取れる回答だった。
「そりゃあそうだ」
彼の返答もまた同じで、再び窓の外へと顔を向けた。
江戸川乱歩著作の“人間椅子”。
ある美人作家の元に一通のファンレターが届いた。差出人の男は作品はもとより、人妻でもある作家の彼女に強く惹かれている事を告白する。しかしその卑しき欲望のため、自ら椅子になるという奇抜なアイディアを考えた男の思いは、まさしく語られる椅子に座る彼女の心を震え上がらせた。
確かに若者向きじゃない、今時の。寧ろ偏執狂的な人間がごろごろしている今の時世でも、これは奇怪かもしれない。それでも僕には刺激的で、理解に苦しんでも嗜好欲を掻き立てられる甘美な作品だった。
照り付ける太陽は治まらず、僕と彼の間には会話もないまま、図書館にある一つの壁時計だけが一定のリズムを保って時間を刻んでいた。
僕は何をやってるんだ。折角の独りの時間を邪魔されて、何者かも解らない人間相手に口まで利いて、不愉快なのに僕はどうして大人しく座ってるんだ。こうしててもこの人は何処かに行ってくれそうな気配もないのだから僕がいなくなるしかないのに、金縛りに遭ったみたいで体は動いてくれない。僕の範囲なのに、僕だけの世界なのに、まさか他人に土足で踏み込まれてしまうなんて油断してた。学校なんて五月蝿い蝉だけの巣窟じゃないのに、なんて浅はかなんだろう。
僕は机上の本に置く両手をきつく握り締めながら、きっとタイミングを逃しただけなんだって、理解できない不鮮明な自分に言い聞かせてた。
「好きなのか? 読書」
また不意に話掛けられて僕は思わず顔を上げたけど、彼は変わらず窓の方を向いたままだった。何なんだよ、一体。
「読んでるだけです、ただ」
僕は泳ぐ視線を落とした。
この人は一体何がしたいんだ。僕の都合なんてお構いなしに勝手に寄ってきて、訊いてくるのは無駄な事ばかり。当たり障りなくしてるのかもしれないけど、僕にとってはそれ以前の問題だった。狡い遣り方で僕の口を開かせて、これじゃあ喋りたくなくても答えなきゃいけないじゃないか。まだ相手が何者か解らないのに、僕は不快でしかないのに……そう思いながら微かに眉を顰めた。
「邪魔かな、俺は」
はっとした。だってまさか、そんな事を言われるとは思わなかったから。心を読まれたのかと思って僕は戸惑って、握った手に密やかな汗を掻いた。
彼はそれ以上何も言わない。僕は俯いたままだけど、彼の視線が痛いほど伝わる。それは責められてるのか問い質されているのか把握できない感覚で、沈着していた僕の心を跳ね上がらせた。
何か言わなきゃと思うのに、弁解する必要なんてどこにもないとも思う。僕は独りになりたかったのだから、この人がそれを理解して自ら此処を去ってくれるのなら有難いし、これ以上余計な雑念を抱えなくて済む。半面、他人なんてどうでもいいと思っているのに僕は、関心だって興味だって持ってないのに僕は、理解してくれてる彼にするくだらない言い訳を考えてもいた。
がたりと椅子を引く音がした。同時に心臓の跳ね上がった僕の頭上で彼の動く気配がする。ぐるりと大きな机を回って、いつの間にか彼の気配は僕の右隣にあった。
息を詰める。嫌な気分だ、吐き気もする。接触したお互いの空気が混濁して、僕の理性は揺さぶられる。
近付いて欲しくない、触れて欲しくない。逃げたいのに体は動いてくれなくて、僕は脂汗を掻くことでしか拒絶を示せないでいた。
ふと、彼の手が僕の頬に触れた。
静寂に亀裂が走ったように一気に僕の金縛りは解けて、彼の手を払い除けようと右腕を振り上げる。落ちた本と眼鏡ケースが館内に音を響かせた。弾みで見上げた長身ははだかる絶対の壁のよう行く手を塞ぎ、眼鏡を外して露になった表情が僕には狂気を孕んでるように見えた。
「放し……!」
僕は間も無く掴まれたその手を外そうと必死に足掻くけど、それでもびくともしない力が込められてたのは本気の証。諸ともしない彼の空いた右手で抵抗する僕は顎の下を捉えられて、苦痛を主張してた顔を強引に向き合わされた。
それは唐突に、気付いた時にはもう、僕の領域を侵していた。
僕は逃げた。緩んだ隙を突いて彼の手を振り払い、立ち上がった拍子に背凭れから倒れた椅子に躓いても、僕にとっては有害でしかない人の手から必死に逃げた。まともに走れない足を何とか動かして、それでも引き摺るようにして走った。校舎内を抜けて中庭に出て、追いかけてきてないって確認してようやく僕は立ち止まった。
上体を前に倒したまま、荒れた呼吸を整えるように深く息をする。少し走っただけでも、苦しさに噎せて肩で息をする癖は喘息特有のそれで、僕は朝に吸入してこなかったのを思い出した。
僕が使用してるのは発作を防ぐコントローラーとして用いられるものだから、携帯していたとしても役に立ったかは分からない。それでも気休め程度に持ってきておくんだったと、今の僕には必要なものだった。
胸を摩りながら深呼吸を繰り返して、僕は徐々に落ち着きを取り戻していった。白く塗料された木製のベンチに腰掛けると、酷く掴まれたせいで赤みを帯びる腕を見て自然と込み上げてきたものに、僕は嗚咽を漏らした。
まだ感触が残ってる。気付いたら僕の視界は名前も解らない見知らぬ人で埋められていて、唇には生温かい感触を味わっていた。気持ち悪かった。男にされたからなんて性別は関係ない。僕の嫌いな人間というものに触れられた事が嫌だった。それもあんな、女にするような事……口にするのも悍しかった。
僕は残る余韻を消したくて手の甲で何度も口を拭った。人間なんかに触れられて、自分が汚されてしまったのが悔しかった。こんな風に無闇に感情が出てしまった事も、人間らしい自分を知らされるのは御免だった。目に溢れるものを堪えながら、だから必死で拭った。
頭の中で何度も、さっきまでの汚濁した記憶がリピートされる。あの時、あの男が自分の存在を主張したその時、直ぐにでも逃げてればこんな事にはならなかった。なのに僕の体は硬直して、それどころか関心さえ抱いてしまった。あの人が何者であっても僕は関係ないししたくもないのに、裏腹に、迂闊にも示してしまった。亡くした筈の僕の人間としての本能が彼に対して疼いた。
違う。僕は悪くない。僕が悪いんじゃない。あの人が僕の世界に踏み込むからいけないんだ。僕を壊そうとするから。
僕は大きく息をしてごくりと喉を鳴らす。流れず無理矢理止めた泪を飲み込んでも視界は歪むばかりだった。コンクリートの地面を睨みつけながらじわじわと体中に染み出すどす黒いものを感じて、咄嗟に両手で頭を抱えた。
「あのとき僕は死んだんだから、廃人に慟哭はいらないんだ」