久多良木文庫
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Under Tale

書き捨て短編集




Dr.Jekilの真実




「殺人は嗜好、人の命は芸術。人が最も美しいとされる瞬間というのはね、息絶えるその刹那なのですよ。そう──あくまでも僕はそのお手伝いをしているだけであって、殺意なんてものは勿論、憎悪などという低俗な感情も持ち合わせていません」
「一種の“オーガズム”ってやつ?」
「さあ──どうでしょう」
 答えるようにして微笑む男の横顔は至極妖しく、身震いするほどの怖さがあった。
 Dr.ジキル──。
 それは許されたのか、単に彼が無関心だったのかは定かではない。しかし俺は確かに彼の傍にいて、真実とも言えるその生涯を目の当たりにした。
 これから記すことは俺が見てきた彼の全てであり、彼が俺にのこした唯一の事実と真実だったと今でも信じてやまない。
 俺にとって彼は全てだ。俺を作り上げたのは彼で、そう認識させてくれたのも彼だ。これ以上語り切れるほどの言葉は他になく、この感情を俗語で表すには勿体無くて、俺は彼を“真実”としている。
「信じてるよ、ドクター。だって俺はあんたのもので、あんたは俺のものだから。死ぬまでずっと、死んでからもずっと、俺とあんたは一緒なんだから」

──Adamの手記・Dr.Jekyllより──


「僕はね、アダム。世界は醜くとも、人間とは酷く美しいものだと知っているのです。どんなに汚されても変わらぬ底があり、流す涙と間際の悲鳴は何よりかれる。感情が動かされるのではないのだよ。気分だ──気が昂揚するのです。どくどくと脈打ち響いては、脳髄神経が麻痺したような感覚に陥る。それはまるでメトロノームのように穏やかで、その瞬間さえ逃してはならない刹那の蠱惑……何れ、君にも分かりますよ、アダム」
 ドクターは何時もそうした言葉を紡ぎ、まだ未熟な俺に本を読み語るようにしながら、ブランデーの香りを漂わせるダージリンに喉を潤した。
 ティーカップを片手に窓辺に立つドクターの姿は不鮮明で、俺は瞬き一つさえ畏れて出来ない。ほんの一瞬でも視界を塞げば最後、この人が俺の前から、それこそ泡のごとく消えてしまうのではないかと思う。独りになることにではない、この人といたかった。
 俺はドクターが何をしているか承知していたし、それなりに理解もして傍にいた。見せ付けられたわけでも教え込まれたわけでもなく、その肢体から漂う芳しい匂いにただ、興味とは違う本能が惹かれた。彼の傍にいて、彼をずっと、その生涯を見続けていたいと欲した。
「ねえドクター。あんたは俺を信用してるの? それとも……」
 体を捻ってソファの背凭れ越しにドクターを見上げると、何時の間にか彼は直ぐ傍まで来ていて、思わず俺は体を強張らせた。それは恐れではない。緊張からどきりと心臓が跳ね上がり、でも射ぬくようなグレイの瞳に身体が硬直した。
「君が僕を信じているからですよ、アダム」
 頬に伸ばされた手は冷ややかで、見上げるその顔に湛えられた微笑もまた、氷のように冷えていた。触れられて感じる独特の“ねつ”と匂いに促され、全身が呼吸を取り戻す。ドクターの存在そのものに生かされている……。
「君は本当に素直で可愛い」
  撫でるドクターの骨張った白い手が──その長い指の先までも──優しくて擦り寄ってしまう。頬から口唇をなぞって誘うように弄ぶ彼の指に、俺は僅かに開いた口から舌を絡めて唾液塗れに舐め上げる。彼から与えられ共有する方法で応え、口に出さない仕様で限られた行為を施した。
 卑猥な音を立てて夢中になり始めたその時、頭上からくすりと笑う声が聞こえた。
「ド、クター……」
 漏れる吐息と共に甘い声で彼を呼ぶ。
 離れていく手が名残惜しかった。昂る気持ちに身体は熱を帯びて紅潮し、見上げて映したドクターの表情は恍惚とした微笑を湛えていて、そんな浅はかで未熟な俺を見下ろしていた。
「ドクター」
 唾液の絡む手をドクターは愛おしそうに舐め上げる。向けられる彼の双眸は光を放ちながら、舌は身体から独立した生き物のように狡猾に指を這う。妖艶なその姿は全身を総毛立たせ、俺は欲情という名の俗物感情をごくりと呑み込んだ。
 卑しい顔をしていただろう。自分でも恥を知りながらそう思ったが求めていたのは確かで、オブラートに装えるほど大人でもなかった。
 ドクターはくつくつと喉を鳴らすと、伸ばしたもう一方の手で下顎から俺の顔を上へと持ち上げた。
「本当に可愛くて──悪い子だ」
 親指の腹でゆっくりと唇をなぞえられる。感じるままに俺は息を吐き、開いた唇から卑しく濡れた舌を覗かせる。愉快そうに微笑い見下ろすドクターの顔が視界を埋めて、待ち侘びるだけの俺はそして瞼を閉じた。
「悪い子だ」
 低く掠れた──その悩ましげ通る声は変わらず、何時までも俺を捉えて放さなかった。
 Dr.ジキル──年齢は恐らく六〇代ほどだろうと思うが実際は不明。外見では判断もつきにくく、彼自身、自分の誕生日さえ知らないのだと言った。覚えていないのではなく、知らないのだと……。
 体躯は長身の細身で──俺と並んでも大差なかったから一八〇はあったと思う──肌は陶器のごとく滑やかな白さを誇っていた。病的なまでの眉目秀麗に何時も穏やかで薄く笑みを浮かばせ、冷ややかでも熱を帯びたグレイの眸は淡い期待をかされる。後ろに流すにかかった白色の髪は光沢を帯びて、無垢なまでの彼の美しさを更に際立たせていた。
 理由は定かではないが──俺もドクターも過去は過去として処理していた節があったし、それも含めて後に彼自身の口から語られる──彼は色を持っていなかった。人はそれぞれに個性として色を持っているものだが、ドクターにはそれがなく、かと言ってあえて持とうともしていなかった。それは自分が何者でもないと表している半面、何者にでも染まれる無限の可能性を持っていたということだろう。
 これから語るドクターのことは全て俺から見て感じた、つまりは独断と偏見によるものだ。それをどう見て感じるかは無論あんたの自由であって、それについて俺がどうこう出来るものでも言えもしない。だが、彼という一人の人間の形を確かなものとするために必要最低限のルールはある。それがDr.ジキルの器、彼の存在を形にしている容れ物だ。たとえ俺の知るドクターの姿があっても、それはあくまでも俺個人の認識している主観であって、客観的に見る景色とは違う。だが、ドクターの形、その姿は、単純な認識からすれば皆同じだ。最悪、容れ物さえあれば必然的に、面識のないあんたにも彼が存在していたという真実は植え付けられる。想像力が欠けた人間でも、ドクターの存在を疑う奴らにも……。
問題はDr.ジキルをどう捉えるか。彼の人となりをこれから知り、最後にどう解釈するのか。そうして出来上がるドクターの姿は、あんたの主観から形成された、あんただけのDr.ジキルというわけだ。
 反対に俺のことは“俺”でしかない。こうして語るのも思考も全て俺のものだが、これはドクターの話であってのことではないからだ。この話の中では俺の存在など何ら重要視すべきところではなく、寧ろ彼以外はどうでもいいこと、補足程度に思ってくれていい。
 以上を知ったうえで、これからあんたには“俺”という存在になって──いや。俺と同じ位置に立って、その傍らにDr.ジキルの存在を感じて欲しい。
 こんなことを言って嫉妬はないのかと疑問を抱く人間もいるだろうが、生憎そんな低俗な感情は持ち合わせてない。何故ならあんたの中に Dr.ジキルの存在が生まれても、それは俺の知るドクターではないし無意味なものだからだ。あんたの中に生まれた彼の存在はあんただけのもので、俺だけでなく他の誰も共感も共有もできないものだ。俺はただ表面上の形を伝えただけであって、彼の人格はこれからの話の中でそれぞれ作られていけばいいと思っている。そうでなければ“何にも縛られず誰のものにもならない彼”という存在にはならない。
 おかしいだろう。そう……全ては彼の“お陰”だ。
 Dr.ジキル──それは許されたのか、単に彼が無関心だったのかは定かではない。しかし俺は確かに彼の傍にいて、真実とも言えるその生涯を目の当たりにした。選ばれたなどという大それたものではないと思う。俺はただドクターの目に留まり、その手に拾われて育てられただけなんだ。“彼の傍に置かれた”のではなく“彼の傍にいた”というだけで、実際のところ俺が何だったのか知る術は無い。寧ろ知る意味があるのか、それすら今は疑問だ。何故ならあの時からずっと、それを追求する必要は無かったのだから。
 俺は何時もドクターを眺めていた。真っ白なレースのカバーを掛けられたソファに座りながら、背凭れに乗せた両腕に顔を覗かせて、取り留めの無い彼の日常を見つめていた。
 Dr.ジキルは綺麗だ。それ相応の年齢に達しているはずなのに、彼は何時も綺麗なままの紳士だった。その仕草一つ一つ、発する声と言葉一つ、薄く笑う長い睫から覗くグレイの眸。何もかもが優雅で気品溢れたものの──神が造りたもうた人間という名の最高傑作──正にそれだった。美しいとされるもの全てを霞ませる、呑み込んでしまうほどの美貌を湛えていた。
ドクターは紅茶を好んでよく飲んでいた、決まってブランデー入りのダージリンを何時も。それなのにお酒“だけ”は飲まなかった。紅茶に混ぜたブランデーは飲めても、“お酒”の形では一滴も飲まない。飲めないわけではなく、飲みたくないわけでもなく、ただ“飲む”という意識に駆られない。同様に煙草も吸わなかった。身体に悪く勘が鈍るという理由だったが、これは単に好き好きだろうとも思う。ドクターはそういう類の嗜好品に一切の興味が無かったのだ。
 興味……ドクターにとっての“興味”とは一体何なのだろう。好きも嫌いも示すものが彼には無いように思える。必要も必然も無ければ、いらないものと認識して破棄する。容赦のない優しさで砕くその姿がまた至極、浅はかな俺を誘っているように見えた。
 俺はドクターの存在そのものに惹かれていた。雰囲気──フェロモンとでも言うのだろうか。そこに在る全てに呼ばれ、誘われ、嘲られ、遊ばれる。その度に俺の中の奥底に有る“何か”が増して膨張し、狂気にも似たどす黒く沸々と滾る淫靡な塊が顔を出した。それは自分さえ気付かなかった、所謂“サディズム”というものだった。
 顔も知らない親に捨てられ、まだ赤子だった俺は貧民街でドクターに拾われた。運命だったと思う。今でもそう思える。あの時ドクターと出逢わなければ今の俺はいないし、あのまま死んでいただろうから。
 俺は成長していくにつれ、ドクターに対してある衝動を抱き始めた。それが“サディズム”だ。ドクターを見ていると沸き起こってしまう、自分ではどうしようもない邪心。俺はいけないものだと思っていた。ドクターに知られたら嫌われてしまうと恐れ、彼に対して臆病になっていった。このままでは駄目だ。知られてはいけない、自分は汚い、醜い。綺麗なまま、無垢なままの自分でなければ彼には愛されないと思い込み恐れていた。だが、それが間違いだと教えてくれたのは他ならぬドクターだった。
「いいのだよ、アダム。君が僕を求めれば求めるほど、僕は君が可愛くて堪らなくなる。僕を求めるその表情が、君が僕に縛められている証拠なんだとわかって、とても嬉しいのだよ」
 堪らなかった。ドクターの言葉が嬉しくて、堪え切れずに俺は泣いた。あやすように優しく抱き締めてくれた手は心地好く、俺はその胸に顔を埋めて更に歓喜する。
 この時から俺とドクターは本当の意味で繋がったのだと思う。少なくとも俺はそう感じたし“至福”というものも実感した。それまで互いの間にあった無意識な隔たりを無意識のままに排除して、表面上は何も変わらず心だけは融け合えた気がした。
 この関係を俗語にするには勿体ない。巧く言葉に出来ないというよりも言葉にすること自体が間違っているようで、どんな言葉で口にしても俺とドクターには安っぽく聴こえてしまう。だがあえて言えるとすれば、俺はドクターに“依存”していた。俺だけの人、俺だけの神様、俺だけの世界。それでも俗物感情を露にして即物的になるなど出来るはずもなく、肉体に対して醜い欲を曝け出すことはしなかった。勿論そんな俺にドクターは気付いていて、煽る真似はしなくても見ているだけで煽られた。
 ドクターはセックスに対して否定的ではなかった。寧ろ“オーガズム”というものには貪欲と言えるだろう。たった一瞬の快感でも味わえるなら惜しまず何でも試した。オーラル、スローセックス、それ以外の快楽行為。感情を露にせず常に冷静なままのドクターが唯一恍惚とした表情を見せるその光景を、俺はただ傍らに眺めているだけで興奮を覚えた。彼が油断する、そして最上の輝きと美しさを放つ時だ。俺に向ける姿を別の対象にも向ける旺盛さ──それすら嫉妬するよりも酷くそそられ、俺の視線に気付きながらまるでそれを促進させるようなドクターの微笑は悪戯で、目線すら合わせないその横顔に余計に惹かれて見蕩れた。
 俺の中のドクターはどんな時も紳士だ。紳士で美しく、そして狡猾だった。だがそれが彼の真実だったのかは判らない。それ以上は理解し切れなかった。拒絶したわけでも否定したわけでもなく、単にそこまでの容量と知識が俺にはまだ無かった。唯一実感として得たものは性行為だけで、それもドクターにとっては定期的なオーガズムを得るためのもの──それこそ“行為”でしかない。決して溺れることのないその姿は余りにも蟲惑だった。
 快感を味わうための衝動。オーガズムを得るための手段。あらゆることを試し実験とも言えることを為しながら、その傍らでドクターはとうに、衝動も手段もその方法も得ていた。それは命尽きるまでの生涯の研究対象として彼を駆り立て、喜ばせ、心を捉え続けていただろう。
 俺は見続けた。ドクターが語り続けた想いを理解し、自らの手で為せるその時までずっと。本当の意味で共有し共感出来る瞬間まで何時までも、俺はひたすらに観察と考察を繰り返していた。彼に強く惹かれながらも抑制するしかない浅はかな欲の塊も、そのとき初めて解放出来るだろうと確信しつつ俺はDr.ジキルの傍に居続けた。いや、何より傍にいたかった。最初からドクターしか知らなかったしいらなかったから。何をしていても見ていても、ドクターは俺のもので俺はドクターのものだから。それ以上でも以下でもなく、それだけは確かな真実だった。今でもそれを信じて止まない。
 ねえ、ドクター。俺の時間はずっとあの時のままだ。あんたとずっと一緒だったあの頃から何も変わらず、何一つ変えられないままで追憶の中のあんたを今でも求めてる。掴めもしない手を伸ばして何時も覚めるんだ。ああ、もういないんだって……。
 伸ばした手をどうすることもできない。いないと覚めるその瞬間を味わわなければ下ろせない。この悪循環を取り除けるのはあんただけなのに、あんたはふらりと消えてしまった。わかってる。約束はしていない。でも願わずにはいられないんだ。もう一度、あんたに逢える事を……。
 一息吐きながら背を凭れる。傍らのティーカップに手を伸ばして一口付けた。
 ドクターが好んだブランデー入りのダージリンの味は俺にはまだ不慣れだったが、それでも共有出来る彼との感覚は心地好くて落ち着ける。まるで彼が傍に居て、座る俺の肩に手を置いて優しい微笑と言葉を掛けてくれているような気分になれる。
 俺は引き摺り、いまだ囚われ続けている。俺を虜にし、世界を惑わせた──世上では“世界を震撼させた”との触れ込みだが──罪作りな美しい人に。世界の裏も表も知りながら、決して俗世に染まることのなかった紳士。気高くも妖艶で、その存在さえ人の精神を狂わせる──おかしくさせる──何かを持っていたDr.ジキル。俺は今でもずっと、あんたのものでしかない。
 カップをソーサーに戻して、崩した体勢を直そうと一度座り直す。再びタイプライターを目の前にしてキーに手を置いた。
 かしゃかしゃと音を立てながら一文字一文字を確実に打ち込んでいく。ドクターとの出逢いとささやかな暮らしを昨日の出来事のように言葉にしながら、この狭く何も無い部屋で俺は一人、彼との思い出に浸り過ごしている。

──Adamより……今はなきDr.Jekyllへ捧ぐ──

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