天白文庫
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DOLL

BL/純愛/R指定




眼帯メイドと仮初めの燕尾服 第二幕




 身体が熱かった。
 主が彼を求めるときは主に二つだった。
 それはどちらも、彼の存在理由でもあったが、特に一方は何とも思わなかった。
 初めの時はどうだったか。今ではもう思い出せないが、それは彼の主にとって何の意味があったのか。今でも答えがわからなかった。
 それから数年が経ち、今の居場所にたった今。
 彼は、ああそうかと、静かに納得した。
 彼を買う客達が、彼の主が彼を求めた時と、同じ顔になったからだ。
 彼の身体は熱くなる。しかし、その反面では凍えるように寒くなった。
 寒かった。
 それはあの……主を無くしたあの日から。
 誰に触れても、誰に触れようとも。
 寒くて。寒くて。
 たまらなかった。

───…

 夜道に紛れることが可能なほどの全身が黒で統一されたツナギ。そして、首元には同じく黒の革ベルトを模したチョーカーをつけている。
 真珠だった。
 ツナギは店で支給されたものだが、それに袖を通すスタッフは今のところ真珠以外にいない。ちなみに真珠がそれを身につけている理由は動きやすいから、というものと、もう一つは彼自身がファッションに気を使わないことだろう。
 しかし勤務中のメイドとは裏腹に、今の彼は列記とした男性に見えた。地味な服装ではあるが、今度は別の意味、そして別の性別の人間が彼に惹きつけられることだろう。
 最も、人気の無い路地裏を歩いていては惹きつける相手すらいないのだが、彼は気にせず自身が借りているアパートへと歩を進めた。
 僅かに開店していた夜店で購入したのは、ペットボトルに入ったミネラルウォーターと携帯ゼリー食。ビニール袋に入れたそれを掲げた真珠は一定の速さでアパート前に着いた。
 二階の奥が自分の部屋。カンカンと鉄の階段を上ると、近くに人の気配を感じた。
 そこで待っていたのは、グレーのカッターシャツにブルーのジーンズ、そして首や手首にはジャラジャラとしたシルバーの装飾品を捲きつけた若い男。
「お疲れ様です。真珠さん」
 憎めない恵比寿顔が特徴の彼、ギイは年相応のムードを纏いながら先輩である真珠に挨拶をする。
 勤務中とは打って変わって、流行りの服装に身を包んでいるこの青年は、まるでファッションモデルのようにそれを爽やかに着こなしている。また、腰には一本鞭ではなく、派手な装飾のピンベルトをつけていた。
 真珠はつい数時間前に会った後輩を目にして、愛想笑いを浮かべるでもなく、ペコリと頭を下げながら挨拶を返した。
「お疲れさま、です」
 後輩がなぜ、自分の部屋の近くにいるのか。それに対して、真珠は何ら疑問を抱かなかった。なぜなら、ギイは自分の部屋の隣の部屋に住んでいたからだ。
「手に提げているのは夜食ですか? せっかくですし、一緒に食べませんか?」
「これは……明日の、朝食……」
「朝食? 真珠さん、夕食っていつ食べました?」
 始めは怪訝に思っていた。SM男娼館という、マイナーな店にやってきたニコニコと笑う若い後輩。そして、またニコニコとした笑顔で自分の隣に引っ越してきた恐い物知らずの男。無法地帯のこのアンダーグラウンドでも破格的に安い物件だが、その価格にはそれなりの理由がある。そのような所に住む者など、よほど生活に困窮している者か、よほどの物好きしかいない。だから選択した住居だったのに、自分を知る者がなぜこのような場所でニコニコと笑っていられるのだろう。
 真珠はギイに警戒心を抱いていた。妖しい、という理由が最もだったが、それに付属して嫌悪感に近いものを彼に抱いていたのだ。
 好きや嫌いといった感情は必要なかった。だが、真珠はおよそ抱いたことの無い感情を、この年若い男に抱いていたのだ。
 しかしそれはそれ。感情は仕事には関係なく、常にニコニコとしている彼が自身の敵ではないと判断した時から警戒を少しずつ緩めていったのだ。そしてそこそこの会話は続くようになった。それを言うのも、真珠が黙っていても向こうがペラペラと語り続けてくるのだから仕方がない。だからといって、彼を自身の部屋に通したことなど一度もなかったが。
 今も夜はとっくに更けているというのに、ギイは真珠をわざわざ外で待っていた。
 だが、真珠は即座に首を横に振った。会話を早々に終わらせ、真珠は部屋に入りたかったのだ。
 自分の部屋に、一刻も早く入りたい。理由はあった。だが、それを口にするのも、顔に出すことも一切無く、真珠はギイが自身の部屋に戻ってくれないかと頭で考えるだけで何も言わなかった。
「ねぇ。真珠さん」
 ピタリと、唐突にギイがアッシュの瞳を垣間見せた。どうしたのだろうと思う前に、神妙な顔つきになったギイが真珠に短く断りを入れた。
「少し、触るよ」
 一瞬のことだった。真珠が何かを答える前に、ギイは真珠の右手首を掴んだ。そして何かが当たったとばかりに「やっぱり」と呟く彼を見て、真珠はされるがまま首を傾げた。
「熱、あるでしょ。しかも相当高い……」
 真珠に体温があるかと聞いているのではない。そうではなく、発熱をしているのではないかと手首を掴む彼は聞いているのだ。
 図星だった。発熱を感じ取れないほど、真珠は鈍くない。だが、発熱をしており、体調に異常をきたしていても、仕事を休むという選択肢は彼には無かった。
 部屋に戻り、睡眠を取る。発汗をして水分を摂取すれば回復に向かうはずだと、帰宅前に普段は寄らない店に寄ったのだ。元々食は細い方だが、今日に至っては特に食欲がなかった。だから購入した水と携帯ゼリー食だった。
 確かに体調は優れていない。だが、誰にも気づかれないように、それを顔には出していないつもりだった。
 真珠は少しだけ驚いた。隣の住人にそれを気づかれてしまったことに。しかしだからといって、何かが変わるわけではないと、真珠はコクリと頷いた。
 だが、ギイは真珠を離しはしなかった。
「どうして言わないんです? あの店は有休が使える。こういう時に使わないでいつ使うんですか。貴方の首に乗っているのは帽子を置くための飾りですか」
 最後の方はただの毒だったが、正論だった。あまりない有給休暇ではあるが、雇用条件に入っているのは確かであり、それを使うことができる。だが、真珠はそれを知らないわけではなかった。
 真珠は業務中に休むということを、端から選択肢に入れていなかったからだ。
「身体が資本の仕事でしょ。こんな弱った身体で客を喜ばすことなんてできると思ってるんですか? 阿呆ですか?」
「ギイ……」
「まさか、それを売りにして客を取ろうなんて思ってる……なんて馬鹿なことは言いませんよね? まぁ、そんな実はビッチな真珠さんもそそりますけどね」
 ギイの言葉に、真珠は何も言わなかった。いや、言えなかった。どの言葉も、真珠には言い返す台詞が思いつかなかったからだ。
 いや、それ以上に頭が痛い。考えるための機能を果たす器官が悲鳴を上げているかのように感じていた。ギイが何かを言っている。だが、言葉が頭に入ってこない。
 途端、真珠の身体がぐらりと足元から崩れ落ちるように倒れた。
「真珠さんっ!?」
 地に落ちる衝撃はなかった。それはギイが右手首を掴んでいたから……ではなく、その腕ごと身体を抱え込まれたからだった。どうやら自身が思っていた以上に、真珠の身体は弱っていたらしい。足元に力が入らず、真珠はそのままギイの腕に全身を預ける形となった。
「う……」
 意識は頭痛のおかげというべきか、はっきりとしている。だが、何かを発する言葉が思いつかない。代わりにドサリと、先ほど購入した物品が手元からすべり落ちた。
「チッ……」
 上から舌打ちのような音が聞こえた。音がした方へ視線だけを動かせば、ギイが珍しく険しい表情を見せていて。しかしそれも一瞬のこと。気のせいだったかと思ってしまうほど彼は瞬時に口端を持ち上げ、普段の笑みをその面に浮かべて見せる。
「こんな所で軽口を言ってる場合じゃないですね。すみませんでした。すぐに休みましょう……部屋、開けてください」
「い、い……俺、一人、で……」
「今一人にしたらそのままぶっ倒れるでしょ。犯しますよ。いいから、鍵を開けてください」
 恵比寿顔の彼。しかし口調は普段と比べれば余裕というものが感じられない。その理由はよくわからなかったが、真珠は部屋の解錠を急かす彼に言われるがまま、自身の部屋の鍵をおぼつかない手つきで開けてみせた。
「真珠さんの部屋、こんな形で入ることになろうとは思わなかったですよ。失礼します」
 ギイは真珠を抱きかかえながら、数歩先にあるリビングへと進んだ。照明は全て落ちていたが、間取りが自身の部屋と同じだからか、ギイは迷うことなくそこへたどり着くと、照明のスイッチを入れた。
「へぇ。何もないってわけではなさそうだけど……物、少ないね。ベッドは?」
 パッと照らされた8畳ほどのリビングは殺風景といえる程のものだった。一応、人が生活する上で最低限必要な物は揃っていたが、それでも真珠の部屋は物品が少なかった。
 しかしギイの目当てとしている物がそこに見当たらなかった。寝床として意味のある部屋に、肝心の寝具がなかった。部屋の面積上、ラックや押し入れはない構造になっている。そのため、リビングに行けばそれは確実にあるだろうと思っていたのだ。
 まさかと思いつつ、ギイは真珠に尋ねた。そして弱った彼から返ってきた言葉は……。
「ない」
「本当に?」
 少しの間を空けて、ギイは尋ね返した。では、どうやって真珠は普段の睡眠を取っているのだろうか。それは考えるよりも明らかだった。
「いつも、その辺で寝てる、から」
「その辺って……ブランケットは?」
「冬じゃないから……」
 ない。
 つまり、真珠は普段からその辺で寝転がっているということである。すなわち、このリビング全てが真珠の寝台であるということだ。
 それでも、敷布かシートか、何を敷くだろうと、ギイは苦笑するしかない。
「給料って、貰ってますよね? 貯金でもしているんですか?」
 真珠は答えない。別段、何かを隠しているわけではなく、ギイの質問の意図がわからなかっただけだ。
 質問に答えるだけならば、答えは「YES」だ。真珠は給料を確かに貰っている。だが、必要以上の金銭を使用しないせいで、結果的に貯まってしまっているというのが真実だ。意図的に貯金をしているわけではない。
 真珠はただ、金銭の使い道がわからないだけだった。
 それはそうと、今は部屋に戻った。ならばと真珠はやはりその辺で寝ようとギイの腕から逃れようとした。
 しかし、それは叶わなかった。
「私……俺の部屋、行きましょう」
 グイッと、自分の肩にかかっていた手に力が籠る。次の瞬間には、自身の両足が宙に浮いていた。
 何だと思うよりも先に真珠は理解した。自分は相手の手中に落ちた。つまり、身体を丸ごと抱きかかえられたのだ。それも、どこぞのお姫様のように。
「ギイ……?」
 そしてどこぞの王子である相手の名を呼ぶが、彼は答えにならない言葉を真珠に返した。
「大丈夫ですよ。病人の先輩に口は出しても、手を出したらオーナーに殺されますから」
「何かって?」
「真面目に聞いてます?」
 ギイは何が可笑しいのか。発熱でぐったりとしている真珠に向かって可笑しそうに笑った。
「真珠さんって、天然だね」
 こうして通されたギイの部屋は、真珠の部屋とは真逆、とまではいかないが、男が一人暮らしをするのならば納得のできる、そこそこ生活感のある所だった。
 小型冷蔵庫にミニテーブル、テレビはないがその代わりのようなノートパソコン、数着の服なら片付けられるような小さな箪笥に一〇は超えるアクセサリーの数々。そしてメディアには敏感なのか数社から取り寄せているだろう新聞と不揃いの雑誌の山があった。
 いかにも人間らしい空間の中。真珠は部屋の中心に身体を降ろされた。
「とりあえず、俺のベッドで休んで」
 俺の、と言われたギイのベッドが壁際に一台あった。それはプレイルームにあるような派手な物でも、上質な物でもなく、折り畳みが可能な簡易的なベッドで、ぐちゃっと皺の寄ったシーツがその上に乗っているというような状態だった。
 しかし、真珠はそれを見下ろすばかりで、ベッドに触れようともしない。小型冷蔵庫の中を物色していたギイがそれを感知すると、苦笑しながら真珠に尋ねた。
「他人のベッドに抵抗あります?」
 シーツを畳むことのない、このいかにも起きたばかりといった他人のベッドがそこにあるのだ。じゃあ休みますと言って図々しくベッドを利用できる人間はそうそういないだろう。
 だが、真珠がそこに立ちつくしたままなのは、躊躇をしているような様子ではなかった。
 ふるふると小さく首を横に振る真珠に対し、ギイはミニペットボトルと何かの小箱を手にしながら、真珠の傍に寄ってクスリと笑った。
「ベッドで寝ていいってことですよ」
 それを聞くと、真珠はコクリと頷いて、もぞもぞとギイのベッドの上に乗り、ブランケットを自身の上に被せて、頭を枕に預けた。
 そうして、ようやく身体を休めることのできた真珠は大きく息を吐き出した。ぐったりと横たわる真珠からは、体力の消耗の程が窺えた。
 ギイはその顔から笑みを消すと、仰向けに寝る真珠の首元にそっと手を掛けた。
「首のチョーカー、外しますね。それから、ツナギの前、開けますよ」
「ん……」
 されるがまま。真珠は抵抗せず、ギイによってチョーカーを外され、ツナギの前部分を開かされる。呼吸をしやすいようにと衣服を緩められると、先ほど手にしていた小さな小箱を取りだした。中にはカプセルが入っており、それが何であるかは一目瞭然だった。
「解熱剤です。水と共に飲んでください」
「薬?」
「ええ」
 スッと目の前に差し出されるカプセル剤。それを横目で見ながら、真珠はめったに変えない表情を崩した。眉間に皺を寄せながら、ギイとは反対の壁の方へと首を傾ける。
 どうしたのかと、ギイが疑問に思うと同時に、真珠からは意外な一言が発せられた。
「薬……だめなんだ」
「真珠さん?」
 一体、どういう意味なのか。それがわからないギイは真珠に聞き返す。
「嫌いなんですか?」
「吐く」
「え?」
「吐くんだ。俺は……薬が、飲めない。口にする物は、自分が理解して……納得したものじゃないと、全部吐く……だから、飲めない」
 この時、ギイがどんな顔をしていたのか、壁の方に頭を向けている真珠にはわからなかった。だが、ペラペラと常に饒舌なギイの口から次の言葉が発せられないのを不思議に思った真珠は少しだけ首を傾ける。
 自分が薬すら飲めない役立たずだとでも思い呆れているのだろうか。そう思いながら。
 しかし目が合ったのは、こちらを見下ろすように、にこりと笑った恵比寿顔。
「なら、真珠さんが納得した物なら飲めるということですね」
「え……?」
 意味がわからず、熱で潤み始めた目を瞬かせると、ギイがカプセル錠を真珠の前に翳してみせた。
 そしてそれを。
「ギ、イ?」
 自分の口腔へと放り込み、カリッという音と共にゴクリと喉を鳴らしてみせた。
 わけがわからず、目の前のギイの行動に声無く驚く真珠。だが、ギイは真珠に微笑むことを止めることなく、平然として言ってのけた。
「ね? 飲める代物でしょ?」
「は?」
 何が何なのか。ギイの行動の意味が理解できない。頭痛と熱で思考が追いつかない。
 真珠は思わず、上体を起こしてギイの名を呼ぼうとした。
「ギ……んんっ!?」
 頭がふと軽くなった──なぜ? わからない。
 口の中に何かが流れ込んできた──なぜ? わからない。
 目の前にアッシュの色がある──なぜ? わからない。
 唇が温かい──なぜ? わからない。
 わかったのは。
「ん……っ……ん、く……」
 ごくりと何かを嚥下する音が自身の内側から聞こえたことだけ。
「っぷは……!」
 ぬるりとした感触が口元から離れると、いつの間にか支えられていた上体を再びベッド上へと寝かされ、ゆっくりと枕に頭を乗せられる。
「の、めた」
「いい子」
 うっすらと汗ばんだ額にかかる前髪に手を宛がわれると、髪を梳くように撫でられた。
 真珠の手より一回りも大きな、逞しい手。ギイはその手で、今夜も客相手に鞭を振るっていたのではないか。それなのに。この額に当てられる感触は、いったい何だろう。
「ん。それじゃ、このまま寝て」
「ギ、イ……?」
「おやすみ」
 瞼が重い。低く紡がれた言葉を最後に、真珠の意識はここで途切れた。
 人肌が触れる、この温かな感触を、なんと言い表したら良いのかわからないまま。
 真珠は深く眠った。

───…

「寝すぎた」
 目覚めの第一声がそれだった。時計を見ずともわかったのは、照明がついていないにもかかわらず、すでにその空間の中が明るかったからだ。
 ぼんやりと視界の中に入る同じ間取りの、しかし自分の部屋ではないそこ。
 左目に掛っている眼帯を確認しながら、ふらふらとだるさの残る身体をゆっくりと起こし、自身の身体に掛っている自身の物で無いブランケットをその身からどかした。
 そして顕わになる自身の身体。真珠は目を見開いて驚いた。店から退勤した時には着ていたツナギを身に着けておらず、代わりに袖を通したこともないサイズの異なる黒のカッターシャツ一枚のみを着ていたのだから。
 言葉を発さず、そのまま自身の下半身を見る。両足は剥き出しになっていたが、肝心な部分は隠れていた。ごそごそと腰回りに手を宛がってみると、下着はちゃんと自身の物を履いていたことを確認する。
 しかしなぜ、自分はサイズの異なる衣服を身に纏っているのだろうと、不思議に思っていると、リビングの端にあるドアの向こうから、人の気配を感じた。
 視線をそちらへ向けると、カチャリと静かにドアが開いた。
「あ、おはようございます」
 ストラップがじゃらじゃらとついた携帯電話を片耳に当てたギイが笑顔で入室した。
「おは、よう」
 ああ、そういえば自分は隣に住むギイの厄介になっていたのだと。真珠はようやく自身の置かれた状況を思い出した。
 高熱で倒れ、ギイの部屋のベッドを借り、解熱剤を飲まされそのまま眠ってしまったのだ、と。真珠は覚えている範囲でうんうんと首を縦に振りながら回想する。考えている時に首を振る癖があるのだろうか、一人で何かを納得している真珠を前に、ギイは可笑しそうにクッと笑った。
 携帯電話での用は済んだのだろうか。ギイはたくさんのストラップを外に出したまま携帯電話本体のみを腰ポケットに入れると、真珠が使っているベッドサイドに腰を下ろした。
「具合は? どう?」
「良、い?」
「なんで疑問形なの」
 クツクツとやはり可笑しそうに笑うギイに、真珠は首を横に傾げた。まだ気だるさは残っているのだろう。それをギイに言葉で表現できなかった。
 しかし確実に熱は下がっている。昨日のような頭痛は無く、身体は幾分と軽く感じた。
 それよりも自分の衣服について、まだなお横で笑っている青年に尋ねたかったが、差し出されたのは体温計だったため、何も言わずにそれを口に咥えた。
 検温中、額にかかる前髪を避けられながら、額を手の甲で触られる。
「ん。平熱だね」
 ピピと、小さな電子音が鳴る。口から体温計を外すと、それは真珠の平熱を指していた。
 良かったと胸を撫で下ろすと、真珠はベッドから完全に起き上がり、ふらふらとした足取りでリビングから退室しようとした。
「って、ちょっと。ちょっと」
 それを、なぜか慌てるギイに手首を掴まれ引きとめられる。
「どこ行こうとするんですか。まだ寝ていないと……」
「仕事……準備しなくちゃ……」
 まだ開店まで時間があるとはいえ、真珠は他のスタッフ達が店に集まる前に出勤し、準備を始めたかった。それが自身の業務の常であるからだ。
 内心、睡眠を取り過ぎてしまったと感じている真珠は焦っていた。それは時間に遅れているわけでも、業務を怠っていたわけでもない。しかし、普段と違う時刻から一日を始めようとする自身に理由などない不安を感じてしまっていたのだ。
 やはり昨夜、自分の部屋で休むべきだったかと後悔していると、「やれやれ」と嘆息するギイが真珠に、驚く事実を告げた。
「今日は定休ですよ。それに、オーナーからはゆっくりと静養するように言われています。むしろ来るなって言ってましたよ?」
「定、休……?」
「やっぱり、もう少し休んでた方が良いですね」
 ギイはアッシュの瞳を覗かせながらそう言った。
 今日は何曜日だったか。記憶をたどってみると、確かに今日は定休だった。曜日を忘れていた。
 かつて、ここまで思考が鈍るほど弱った事があっただろうか。
 元々、大人しかった真珠がさらに大人しくなった。
「朝食……っても、もう昼だけど。食べられます?」
真珠はコクリと頷いた。
 それからしばらく経った、午後一時半。
 アンダーグラウンド内でも地上にある繁華街のように、飲食店、雑貨店、ブティック等といった専門店を密集させた通りを、ニコニコと笑う青年と、まるで人形のように表情を崩さない眼帯をつけた青年の二人が並んで散策していた。
 一方は流行にのったカジュアルな服装で、もう一方はどこで購入したのだろう変わったデザインのツナギを身に纏っていた。
 その歩く二人の姿を通りすがる人々が、必ずと言っていいほど二度見をしていたのだが、当の本人達は気にしていないといった様子で突き進む。てくてくというよりは、スタスタといった速度で。
 また、二人は二人だけにしか聞こえない声量で言葉を交わしていた。
「待っててくれれば、昼食くらい買ってくるんですけどね」
「ずっと寝てるのは……苦手」
「いいんじゃないですか? 一日くらい何も考えずに寝てたって。つい数時間前はぶっ倒れたんだし、もう少し休んでいたほうがいいと思いますけどね。まぁ、帰ったらもう一度寝てください。俺の部屋を好きに使ってくれて構わないから」
「あまり、他人の部屋にいるのは、落ち着かない……今夜は、戻る」
「さいですか……あ、この角を曲がってまっすぐの店ですよ。夜はバーだけど、今の時間帯なら飯を作ってくれますから。真珠さん、好きなものあります?」
「ない」
「じゃ、苦手なものは?」
「……もの」
「何?」
「生もの」
「生? 刺身とか?」
「そう……」
「当たったことある、とか? そんな理由?」
「死にかけた、から」
「あ〜、これ大声で笑ったらいけないパターンですね。とりあえず安心してください。今から行くとこは生もの出さないんで」
「ん」
「それで? 好きなものは?」
「ない」
 ペラペラと喋りかけるのはやっぱりニコニコと笑う彼で、必要最低限以外は答えようとしないのは、人形のような彼。会話の内容は他愛なかったが、それでも二人の注目は止むことが無い。
 そんな二人を見かけた、関係の無い通りすがりの女が二人、揃って頬を赤く染め上げた。そしてたまたま、人形のような彼の方と目が合うと、きゃあきゃあと声を上げてそそくさと通り過ぎていく。
 いったい何事だと思いながら、首を傾げると、頭一つ分は高い恵比寿顔の彼がクツクツと笑って一言。
「ま、気分はいいね」
 えらくご機嫌な様子のギイを見上げながら、真珠は会話に答える反面、別の事を考えていた。
 なぜ、この男は自分にここまでするのだろうか、と。
 得られる利益など全くないはずなのに、さして面白くもないだろう自分にこれでもかというほど関わってくる。今回の時のように、高熱で倒れた他人を普段己が使用しているベッドに寝かせるなど、いくら先輩であるからといっても、利益が無ければそんなことを行う理由などないはずだと。
 利益などない。自分にそんな価値などない。だって……。
 なぜなら自分は……。
「真珠さん?」
「なに?」
「ここ。着きましたよ」
 ギイがピタリと立ち止まり、真珠の足も自然とそこで止まった。
 見ると、そこはレンガ造りのアパートのような外観の建物が一軒。看板も表札もなく、言われなければ一見してそこが店だとはわからない。
 しかしギイは構わず、そのうちの一部屋のドアを開けると、真珠に中へと入るよう促した。
 中を伺うようにして入ると、ギイが初めに言っていた通り、どこからどう見てもバーであるとわかる大量の酒瓶と洒落たカウンターが目を引いた。そして中にいた店員と思しき人間に、ある一卓の丸テーブルへと案内されると二脚の椅子に適当に腰掛ける。
 真珠はそのままストンと、ギイはその長い足を優雅に組んで。
 店員がギイの傍に近寄り、耳元で何かを話しかける。内容は聞き取れなかったが、ギイはコクリと頷くと、真珠に向かってニコリと笑った。
「メニューはないから、適当に注文してください。ここ、何でも作ってくれますよ」
 バーがメインの店なのに、何でも、というのは珍しい。真珠はそう思いながら、しばし黙って考えたあげく……。
「カレー」
 と、答えた。
 ギイは店員にカレーを二人前注文すると、先に出されたお冷を一口飲んで真珠に向かった。
「辛いの好きなの?」
 真珠は答えなかったが、しばらくの間を空けてからコクリと頷いた。そしてギイと目を合わせずに出されたお冷を手に取って、ちびちびと飲み始めた。
 店内を見渡すと店員らしき人間が三人ほどいたが、周りに真珠達以外の客は他に見当たらなかった。だが、どこからともなく流れるジャズが控えめにこの空間内を纏っていることが、初めて入店した真珠の緊張感を徐々に解いていった。
 お冷を飲み干すと、真向かいから感じる視線が気になり、チラリとそちらへ目を向ける。わかってはいたが、ギイがこちらを見つめていたのだ。それも、なんとも言い表せない微笑みを見せながら。
 ギイが口を開いた。
「普段はどこかに出かけたりするの?」
「あんまり、しない」
「じゃ、休日は何してるんです?」
 突然そんな質問をされても、真珠は困るばかりだ。またなぜ、そんな質問をされるのか、その意図すらも掴めない。
 休日は自分が最も苦手とする時間だった。何をしていいのか、また何をすれば良いのかわからない。なぜなら、自分はこれまで、誰かにその時間を所有されて生きてきたのだから。また、その時間を所有され、生かされてきたのだから。
 これからもそうやって生きていくものだとばかり思っていたのに。しかし自分には、自分だけの時間ができてしまった。
 真珠はこの自分だけの時間を、この先どうやって使っていけばいいのかわからずにいたのだ。
 ずっと閉じられていた口が、なぜだかわからないが、自然と開いた。
「何をしていいのか……わからない」
 落ちた言葉は、何とも言えない悲壮感を帯びていた。
 しばらくして。
 運ばれてきたカレー——風のドリアを半分程食したところで、先に完食したギイがスプーンを空の皿に置いて一言呟いた。
「なるほどね」
 何を納得したのか、その理由を口にはしなかったが、彼は真珠が食事を終えるまで微笑みながら待っていた。食事をしているところを見られることに抵抗はあったが、ギイがこちらを良く見ているのは珍しい事ではないので、真珠はただもくもくと皿に盛りつけられた好物を食べ進めていった。
 昨夜の食欲不振が嘘のように、真珠は食事を平らげた。美味であったのはもちろんのこと、ギイに飲まされた薬が効いているのだろう。スパイスの効いたカレーを食しても胃腸が不快にならなかった。
 後から追加されたお冷を一気に飲み干すと、ギイが店員を呼んで会計を済ませた。先輩である真珠の分も支払ったので、自分の分は自分で支払うと口にすると、ギイはわざとらしくも考える素振りをして……。
「じゃ、少しだけ付き合って」
 そうして食事を終えて店を後にし、意外な一言から連れていかれた先は、どこにでもあるような雑貨用品店。ギイがその身にジャラジャラと巻きつけている物と相違ないそれらが数え切れないほど陳列されている店だった。
 初めて足を踏み入れる店内で、真珠はキョロキョロと興味深そうにアクセサリー類を見ていくが、欲しいと思える物は何一つとしてありはしない。普段の生活の中で、装飾品は好まなかったし、動作の邪魔になるだけだと思っていたからだ。
 品物近くに設置されている鏡を見ながら、首元にそっと触れてみる。それは普段から身につけているチョーカーだった。だが、唯一装飾と呼べるそれも、真珠にとっては飾りではない。
 これは戒め。そう言い聞かせてきたのは、いつからだったか。真珠はふと瞳を閉じた。
 思い出すのは、自分が現在身を寄せているあの店に来る前のこと。あの頃の自分は、このチョーカーの事など気にしなかった。しかし今は、これがないと休日という一日を乗りきることができなかった。
 精神的な安定剤。そう言えばいいのだろうか? たかが首に巻きつけているだけなのに、これには相当な役割があった。
 真珠は再び瞼を開く。そしてそのまま、大きく目を見開いた。
「ああ、これがいいかな」
 気配など感じなかった。しかし、自分の背後にはいつの間にか彼がいた。
「真珠さん……これ」
 目の前の鏡に映るのは、自身の耳元に何かを宛がう後輩の笑顔。何がそんなに嬉しいのか、彼は真珠に「どうです?」と尋ねてくる。
 耳に宛がわれている小さなそれに注目する。
「ピアス?」
「そう。といっても、俺がつけるわけじゃないよ……真珠さん」
 小さな小さなそれは、真珠の瞳の色と同じ、澄んだグリーン……いや、エメラルドの色をしていた。ギイは綺麗なそれを真珠の耳から離すと、手を差し出すように言ってくる。一瞬だけ躊躇したが、彼が早くと急かすので、言われるがままに自分の手の平を差し出すと、二つのエメラルドをポンと落とされた。
 意外な言葉と共に。
「真珠さんにプレゼント」
「俺、に?」
「そう……でも」
 低く発せられた逆接と共に伸びた手は、再び真珠の耳元へと伸び、その指先はするりと……彼の耳たぶを擽った。
「んっ……」
 そんな些細な感触に、真珠の身体は小さく震えた。「ふっ……」と息が張り詰めると、ギイはその耳元で低く囁き始めた。
 「真珠さん、ここ……処女でしょ? これを受け取るってことは、真珠さんのこの綺麗な耳を開通するってことになるわけだけど……」
 ボッと火がついたように、身体の奥が熱くなるのを感じた。なぜ? どうして?
 それまで、寒さばかりを感じていた自身の身体が、急に熱を持ったように熱くなる。
 ああ、そうか。まだ身体の調子が戻っていないのだ。おそらく、外に出たせいで再び発熱をしているのだろう。真珠は自身にそう言い聞かせた。
 身体が火照る。とても熱い。
 熱い。
 熱い。
「俺が真珠さんの処女、貰っていい?」
 真珠はギイのことがわからなかった。
 ひとまず火照る身体を冷やすように、店外へそそくさと出ていった真珠。そんな彼を追いかけるように、後から店外へと駆けだしたギイは前方にあった何かにぶつかってしまう。一体何が? と思うのと、それが何かとわかったのはほぼ同時だった。
 人形のように、ピタリと固まっている真珠。ギイは「それ」にぶつかったのだ。
「真珠さん?」
 しかし、ぶつかった衝動があるはずの真珠はびくとも動かない。反応がまるでない「それ」を不思議に思ったギイは真珠の名を呼んでみたが、ある一点を見つめたまま微動だにしない「それ」から返ってきたのは、あのメイド服に身を包んでいる時の人形のような声。
「ギイ。先に、帰ってて」
「真珠さんっ?」
 人形の彼が、その場から姿を消した。

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