Bedlam
偏執的情慾症候群
BL/ML/ダークシリアス短編集
異常性愛者
─ある精神科医の話─
「僕を、殺してください」
彼はそう謂って、手にするナイフを私に寄越した。
「僕を殺して、殺してください……お願いだから」
懇願する彼の目からは一粒の涙が零れ落ちる。私の手にナイフを握らせるその力は強く、でも震えていた。その震えが恐怖からくるものではないと、無論私は理解していた。
「このままゆっくり引けば、僕は死ねる」
跪く彼を見下ろしながら、私はただ彼の猫のような目と零す泪、薄紅色の口から発せられる声に欲情していた。意識すればする程ぞくりと背筋を走り、全身が総毛立つ。
私は彼の虜だった。
私と彼の出逢いは半年前。勤務していた大学病院を辞めた私が、小さな精神科専門のクリニックを開業して一年ほど経った頃だ。
当時の彼は見るも酷い状態だった。体中は無数の痣、背中には何重もの傷と蚯蚓腫れが付いていて、明らかに虐待や折檻の類を受けた証拠だった。私は直ぐにでも外科専門のクリニックか病院で手当して貰うよう促したが、頑なに彼はそれを嫌がった。説得を試みても変わらず、疑念を抱きながら私は仕方なしに知り合いの医師を呼んで処置して貰った。手当てが終わって二人になったその時、彼は私に事の詳細を話し始めた。その語り口はとても機械的で、まるで他人事のようだった。
「殺して」
彼は本気だった。いつも本気だった。付き合う幼馴染の男の暴力に耐え、その捌け口を私に求めて始末させた。
いつからこんな関係になったのか、出逢いほどにはっきりとは覚えていない。ただ、私は医師にあるまじき同情をこの子に寄せ、彼はそれに縋り私を利用し始めたのだ。
「ねえ、お願いだから先生──」
私は惹かれた。従順なまでの性質、人の心を惑わし狂わせる作りと魔性の雰囲気。彼の持つ全てに私は魅了され、理性の一欠けらをそれでも守りながら囚われた。
私はたった一欠けらの理性でもって一線を越えられずにいた。それは彼が、どんなに暴力を振るわれても幼馴染の男の事を愛していたから。男に、その連れの獣共に輪姦されても、それが男の指示であっても、体を売れと強要されても、殴られても蹴られても……。
「愛してる」の一言で彼はいつも救われた。
「ねえ、殺してよ」
私は秤にも掛けられない。彼にとって私の存在は都合が良いというだけで、愛の価値もそれ以上も以下もないからだ。それは余りにも不条理な扱い、切望の隙間を埋めるだけのまさに捌け口だった。
だから私は許さない。蔑み、貶めて、言葉でも暴力でもなく責め立て、縋るばかりのこの堕天使を愚かに思って嘲笑ってやるのだ。
「早く……!」
彼は自分では死ねない。決して死なない。それは死ぬのが怖いのではなく、愛する幼馴染の男を失うのが怖いからだ。死んでしまったら二度と会えない、触れられなくなるから怖くて死ねない。でも貪欲になればなる程、自分の愛が恐ろしいと言う。いつかその愛が相手を喰らうのではないかと、妄想に彼は怯えていた。
そんな彼を愛おしく思うより、憎く思う。今も私の下で懇願し続けながら、粘着質に理性を弄ぶ行為を施す彼を、それこそ殺したいほど憎く思う。これは愛ではない。私は彼に憎しみを、彼は私を駒の一つに、ただそれだけの不純な関係だった。
「殺して、ねえ──せんせい」
それでも私はその先に行けなかった。ナイフの柄を握る手に力を込めても私は、臆病な私は一線を越えられないまま、いつもと同じ彼の口の中で果てた。