久多良木文庫
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ML/近親相姦/サークル企画




ボーダーライン




 鷹見は何度目かの溜息を吐くと、ハーフリムの眼鏡を外して目頭を押さえた。パソコンの前に座って一時間近く経っても画面は真っ白なままで、キーボードを叩くはずの指はコツコツと机を打ち鳴らすばかりである。その横には文字一つ増えないパソコン画面の代わりに煙草の吸殻が、山となった灰皿が置かれていて今もまた、鷹見の口に銜えられた煙草が新たな紫煙を燻らせている。仕事をしていれば紛れてくれるだろうと思っていた鷹見の頭の中にあるのは、やはりカッツェのことであった。
 母親の支配下に置かれた小さな部屋で身も心も抑圧されて言われるがまま、欲の捌け口として男たちに弄ばれる。幼少期のカッツェにとってそれが世界の全てだった。母親がいなくなったあとも刷り込まれた思想は塗り替えられることなく、母譲りの妖艶さを持って眉目秀麗な外見で男たちを誘引し強要されるあらゆることに応え、生きる手段がいつしか本能という自らの意思で身体を差し出すほどに、それがなければ生きていけなくなった。飼い主だから、ペットだからと自身に言い聞かせて一つ二つ傷を増やしても、カッツェはただ笑うだけ。甚振り嬲られることに慣れてしまって痛みは快感に転化されて、もっと欲しいと求めて止まない。安堵の息を吐ける日もなく肉欲に塗れ溺れる半面、カッツェの未発達な理性は無意識に取れない枷にもがいてきたのだろう。
 カッツェの告白から数日。眠れぬ夜は過ぎてタイムリミットが近付くほど鷹見の中で、カッツェの存在は濃くなる一方であった。
 二六年間というまだ短い人生の大半を他人のために費やして、だが愛情を与えてくれる人はなく、やっと自由を得てもそれに順応する能力が備わっていなくて途方に暮れる。無垢であるが故に現実を知れば知るほどカッツェは自身に対して疑念を抱き、育まれた己の理性によってそれまでの日常を覆された挙句、自分の存在さえも否定される。
 カッツェに根づく想像を絶する過去の汚濁に鷹見は、自身の無力さを心底思い知らされた。手を差し伸べるどころか声もかけられず、血を吐くようなカッツェの言葉をただただ聴くしかなかった。
──もったいないんですよ。僕には、ここは綺麗過ぎて……もったいない。
 カッツェが拒絶しているのは鷹見ではなく変わろうとする自分自身なのだと、話を聞いたすえに鷹見はその答えに行き着いた。
 何故、今まで気がついてやれなかったのか。鷹見が客に振り撒く愛想笑いと同じ、カッツェの作り笑顔が生きる手段の一つだと分かってやれていたら。カッツェの秘めた苦しみにもっと早く気がついていたなら、理不尽な怒りをぶつけて追い詰める真似などしなかっただろう。いや──鷹見のあの怒りは理性より感情がった結果であって誰より、後悔しているのは鷹見自身だ。感情に引き摺られることなく理性でもって話をしていれば何かが違っていたかもしれない。
 途方に暮れる鷹見であったがそれでも、今のカッツェをドイツに行かせたくはなかった。やっと手に入れた自由を投げ出して昔と同じく男たちに弄ばれる日々を送るのかと、傷だらけであったカッツェの身体を思い出して鷹見は顔を歪ませる。
 それでいいのかもしれない。カッツェにとっては日常でしかないのだから。変わることより変わらないことの方が楽であろう。だがそうして、虚しさばかり肥大していくのだ。孤独も、寂しさも、気付かないままでいたなら本当に何も変わらずに苦しみに喘ぐこともなかったはずだ。身についた理性はカッツェを人間らしくしながら、それ故、人間らしく在り続けることの負担を思い知らせている。
 孵化しようとしながら恐れる、カッツェ当人が気づいていない変化に鷹見は気づいていた。分かっているからこそ行かせたくない、だが自分に何ができる。カッツェの抱える孤独の重みを、カッツェの全てを受け入れる覚悟が果たしてあるのか。中途半端な思いで引き止めてはきっと救えないし、半端な口先では信じてもらえないだろう。鷹見の心は急いて、助けたいのに足は竦んで、固く閉ざされたカッツェの領域に踏み込めずにいた。
 どうしようもなく鷹見が煙草の紫煙と共に大きな嘆息を吐こうとした時、部屋の扉がバタンと激しく開かれた。
「たーかー! お兄様のお帰りだぞ──ぶっ」
「パンツ穿いて来やがれっつってんだろ、バカ兄貴」
 椅子から立ち上がると同時に振りかぶった鷹見の拳は目にも止まらぬ速さで見事、麿の顔面にヒットした。
「ひどい……! ひどいわあ!」
 どこからともなく出したハンカチを銜えて半ベソ状態で科を作る麿に、鷹見は両手に拳を作って凄む。
「いいからパンツを穿け。そして出ていけ、二度と来るな」
 殺気の炎に仁王立つ鷹見の剣幕に麿は渋々と、これまたどこから取り出したのかパンツを穿いて鷹見の部屋のベッドに腰掛けた。
「なんだよ?」
「久しぶりに愛するお兄様が帰ってきたんだから、もっと喜んでくれよう」
「はいはい。おかえり」
「もーう、タカったらツンデレなんだからぁん」
「しばくぞ」
 頬を引き攣らせる鷹見に麿は「照れ屋さん」と一人楽しそうである。
 ようやっと出稼ぎから帰ってきた麿は早速全裸で出迎える兄弟らと愛の抱擁を交わし、仕事中の鷹見の部屋に乗り込んできたのだった。麿の帰還に、休日ということもあって兄弟らが集まる階下は大騒ぎだったのだが、鷹見はそれに気づく余裕もなかったようだ。
「仕事中だ。用がねえなら出てけよ」
 そうは言うものの鷹見の頭の中はカッツェのことでいっぱいで煙草は増えても仕事は手つかず、一向に進まない。だからといって誰かと話しをする気分でもなかった。
 パソコンに向き直る鷹見は煙草を挟む片手で頭を抱えて嘆息を吐く。それは兄に対する疲労感か、カッツェに対する自分への不甲斐なさか……。
 素っ気ない鷹見の背中を一瞥して麿の視線は宙を仰ぐ。
「そうやって悩んでても答えは出ないぞ」
 トーンの低い麿の珍しくまともな科白に鷹見は麿の方へと振り向く。
「自分ができるかどうこうじゃなく、してやりたいことすりゃいいんだよ」
 麿が言わんとしていることを把握した鷹見は驚きを隠せない。
「なんで──」
「だって麿兄さんだから」
 親指と人差し指を広げた手を顔に添えながら、片側の口角を上げてきらりと光る麿の微笑。
 その様にいつもなら「アホだ」と呆れるところだがそれよりも何故、今自分が考えあぐねいていることが分かるのか鷹見は不思議に思う。しかし麿の答えに妙に納得してそれ以上問うことをやめた。いや、問えば問うほど面倒臭いことになるので放置する。麿の動物的嗅覚は超能力と言っても過言ではなく、訊いたところでどうせ斜め上の返答をされるのがオチで、それを相手にするほどの余裕は今の鷹見にはない。
 僅かに眉根を寄せる鷹見に諭すような麿の言葉が続く。
「たまにはさ、なりふり構わずやってみるのもいいんじゃねえの? 考えても答えが出ないなら行動あるのみ。石橋は叩き過ぎると割れるって言うだろー」
 鷹見の生真面目さをよくよく理解している麿はそれが鷹見の良さであることも認めていた。しかし時にそれは行動を制御し、自身の自由を奪ってしまう枷にもなるのだ。果たして麿がそこまで考えているかどうか謎だが、謂われた鷹見本人が受け止めた時点で答えは出ていた。
 ベッドから立ち上がって麿は部屋のドアノブに手をかける。
「男を見せろよ、タカ」
 挑発するように麿は一度鷹見を見遣って部屋を出た。
 部屋から飛び出した途端パンツを脱いだ麿が兄弟らと更なる愛を深めようと暴走し、月の雷を食らうのはまた別の話である。
 まさか麿に諭されるとは思いもよらなかった。普段はちゃらんぽらんで馬鹿丸出しの麿だが、肝心なところではいつも兄の背中を見せてくれるのだ。
(なりふり構わず、か……)
 敵わねえなあと苦笑する鷹見は、思っていても本人には口が裂けても言ってやらない。言うことも遣ることも時にぶっ飛んでいてもいつも一歩二歩先に立っていて、それを悔しいと思う半面、鷹見は麿を尊敬していた。
 麿の言う通りなのだ。うだうだ悩んだところで状況は変わらない、既にカッツェは決断してしまっているのだ。変わることより変わらないことを、逃げることで結果的に選んでしまった。悪いとは言えない。カッツェが自分で決断したのだから兄であっても他人である鷹見が口を出すべきではない。だがここで引いてしまえば、カッツェは今度こそ光のない世界で一生を過ごすことになるだろう。嘘でも笑って、壊れても笑い続けて……。
──わからないんです。好きで見ているのか、どうか……。
──嫌がらなかったんですよ、僕は。何が嫌かも分からなかったし、嫌という言葉すら知らなかった。求められることの全てに『はい』と答えるように教えられたから……。
──真夜中に家を出た僕は、見上げた空に星が輝いているのを見ました。キラキラしてて、すごく綺麗で……空はこんなに広くて、こんなに綺麗なんだって嬉しかった。吸い込まれそうなほど真っ暗なのに、負けないくらいにいっぱい、星が光ってた。
──もったいないんです。僕には、ここは綺麗過ぎて……もったいない。
 人として生きていれば必ずしも芽生えていく当然のものが生きることに不要だと矯正されてしまって、呑み込んだまま忘れてしまった感情は確かにカッツェの目の奥に秘められていた。ガラス玉のような無機質な双眸に背筋が冷えるほどの微笑はこれまでの、過酷な世界を生き抜いてきたカッツェの姿なのだろう。
 ひどく物悲しく、寂しく、愁いの笑顔で星空を見上げるカッツェの姿を鷹見は思い出す。幼い頃は初めて見た星空にきっと、自由を馳せていただろうと考えると鷹見の胸は痛いくらいに締めつけられた。あんなにも焦がれている空を失くして、ようやく手にした自由も愛情も捨てて、溝泥の深みへとカッツェは進もうと──戻ろうとしている。
 知らず知らず力の込められた鷹見の手が煙草を締め上げる。
 暗く、冷たく、誰一人寄せ付けないカッツェの領域。絶対の拒絶からくる重圧も純粋に助けたい一心で耐えられる。目の前を通り過ぎていくカッツェをただ黙って見送ることしかできずに、取ることのできなかったあの腕を今度こそ、取らなければ二度とチャンスはない。
 隙間ない灰皿に圧しつけられた煙草の火が消えるように、鷹見の中から一切の迷いは晴れていた。

 その日、家内が寝静まった頃。カッツェの部屋に立つ鷹見はひとつ深呼吸をして、意を決して眼前の扉を叩いた。

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