久多良木文庫
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Lovers Tale

BL/ML/ラブコメ短編集




紳士な上司


紳士な人々




 カーテンの隙間から洩れる日差しに緩やかに起こされた俺は、うつらう中で枕元のスライド式の黒い携帯電話へ手を伸ばす。寝惚け眼を擦りつつ下部のボタンを適当に押せば、剥き出しの画面は光を放ってアナログ表示の時計を映し出した。
「げっ──やっべ!」
 時間を確認して俺は途端に顔面蒼白で折り畳みベッドから飛び起きると、転がるように階段を駆け下りて洗面所へと飛び込んだ。
 携帯電話の画面の下部にマナーモードのアイコンが付いていることに気付いたのは、全力疾走のお陰で予定通りの電車に乗り込んだ鮨詰め状態の車内だった。幼い頃から寝惚けて目覚まし時計を止める癖はあったが、まさかマナーモードを設定するなんていう進化までしてやらかすとは……我ながらいらない器用さに嘆く。
 父親の転勤に母親も伴い、大学から実家で一人暮らしを始めておよそ七年。これでも自活はしていて、母親から懇切丁寧に仕込まれた料理の腕はすっかり板についていた。誰かに食べさせるわけじゃないから適当なものだけれど──たまの贅沢と言えば、休日の前夜に缶ビールを二〜三本と、つまみに好物の辛きゅうりやら漬物のを嗜む程度だ。
(二七歳にもなってこんな失態……危ういなあ)
 俺は下車した駅構内のキオスクでおあずけになった朝食代わりに、チョコレート味のカロリーメイトを購入してから勤務先へとオフィス街を歩いた。
 会社は高層ビル群のオフィス街の一角にある、総合広告代理店のアウトサイダー・クリエイティブ「Valeur」。結構名の知れた大手企業で、その本社勤めというのは俺的には密かな自慢である。
「おはよう、鷲原
 出社時間に間に合い、エントランスホールのエレベーター前で不恰好なネクタイと深いの背広を整えて、一息吐く俺は後方から掛けられた声に全身を強張らせた。
 低く少々れてながら響きを持つ声は、勤め始めてからここ最近になって聞き慣れた、しかし未だ身を硬くしてしまうものだった。
「お、おはようございます、都谷さん」
 深々と頭を下げて緊張の余りどもってしまった挨拶を返す俺の隣にすっと現れた、黒いコートに身を包んだ都谷さんは少し顔を傾けるようにして微笑んだ。
「どうした? ぼうっとしていたようだが」
「い、いえっなんでもありません! 大丈夫です!」
「そうか? それならいいが、無理はするなよ」
「はい……」
(いい加減慣れたいもんだ、心臓がもたんて……)
 都谷左京さんはデザイン部の部長であり、俺の直属の上司でもある。
 うちの会社は役職関係なく、他社へ赴いた場合以外は社長も含めて上司や先輩は「さん」付けで呼ぶ事を義務付けていて、同期や部下に対してはそれぞれが好きなように呼んでいる。入社当時は失礼な気がして呼び慣れなかったがコミュニケーションの一環という社則だし、それに慣れてみると確かに親しくなった気がするので嬉しいものだ。
 やっときたエレベーターに男ばかりと六人ほど乗り込んで、不快を感じない程度のむさ苦しさを感じながら隅に立つ。そんな狭い箱の中で肩が触れるか触れないかのすぐ傍らには都谷さんがいた。
 都谷さんはいつの間にか脱いだコートを深い鈍色のスラックスのバーティカルポケットに入れた左腕に抱えていて、眼差しは何処を見るでもなく伏せていた。
 目鼻立ちのはっきりした清澄な顔立ち、後ろに流しているだけのセットされた黒髪はシンプルでも、清潔感があって好ましく思う。
(男の俺から見ても、かなりの男前……)
 男が男に憧れる気持ちというのを俺は、都谷さんに出会って初めて知った。都谷さんは一人で数人分の仕事を軽くこなすし、部下の面倒見も良くて何かとフォローしてくれるし、上からも勿論、俺達部下からの人望も厚くて尊敬もされている。人格的にも外見的にもパーフェクトと言って過言じゃなく、女性社員の間じゃ別の意味でも大人気だ。
 自分もこのくらい恵まれていたら得した人生送ってたかもなあ──なんて、そんなことを思いながら都谷さんの顔を凝視していたらしい俺は、その視線が突如自分に向けられて驚く羽目になってしまった。
 俺と都谷さんの身長差は数センチちょっと。都谷さんとの距離は二人の片側の肩幅を合わせて並んでいる状態だった。盗み見るようにして、でもさり気なく都谷さんの顔を覗き込んでた筈の俺は不意を突かれたのだけど、当の都谷さんは何だか困ったような、もしかしたら照れていたのか苦笑いを浮かべた。
 こんな顔もするんだ──寧ろ俺の方が気恥ずかしくなって、もしかしたら赤いだろう顔を伏せた。
 大学卒業と同時に入社して六年目。まだまだ半人前なのは当然なのだけど、それでも仕事には慣れて同僚との付き合いもそれなりで、勿論上司とも巧く付き合っているつもりだ。元々俺は人見知りするタイプでもなければ口下手ってわけでもない……と思う。ただ、何故か都谷さんに関しては今一つよくわからない。というより、どう接していいものか悩む。上司としては憧れているし尊敬もしているけれど、不思議というか謎というのか兎に角苦手な部分があったりする。
 一人、また一人と降りて、気付けば狭い箱の中に二人だけとなった俺と都谷さんはお互い何の会話も交わさないままに、エレベーターは目的の階へと辿り着いた。
 都谷さんは開ボタンを押しつつ俺を先へと促す。
 相手が上司であることもそうだけど、何より俺は都谷さんが持つ独特の雰囲気に呑まれてしまい、妙な緊張感のせいで巧く口が動かなかったのだ。己の度胸の無さに無意識の嘆息が零れる。
「鷲原」
「はい──!?」
 エレベーターから降りた途端に都谷さんに呼び止められて思わず俺の声は上擦った。同時に振り返った先には、まさか都谷さんの顔が間近にまで迫っていた。
「君は……」
「へ?」
「いいか?」
 都谷さんは何やら笑いを堪えてるようで片眉を下げ、それでも真っ直ぐに視線を合わせたまま俺の顔へと右手を伸ばしてくる。示されたその行動の真意が全く読めない俺は更に間抜けな声を発しながら、蛇に睨まれた蛙の如く金縛り状態にあった。
(な、なんだ!?)
 わけも解らずパニック状態の俺を知ってか知らずか、伸ばされた都谷さんの手はゆっくりと──意外というか予想外というか、構えていたわりには拍子抜けだった──色素の薄い茶色の俺の髪を撫でた。
「寝癖がついている」
「へ──えっ!?」
 確かめようと咄嗟に手を伸ばす俺に「じっとしていなさい」と、近付く都谷さんの声が頭上から降る。
 昨日は購入したばかりの新しいゲームを遣り込み、久し振りの夜更かしで寝坊した今朝は大慌てだった。手櫛で済ませただけのほぼ寝起き状態の髪はさぞかしぐちゃぐちゃだろうと思う。
 言われた通り大人しく──というより動くに動けない俺は棒立ち状態で、至近距離にある都谷さんの顔を直視なんて出来ず視線を落とした。異性でもここまで恥ずかしいなんて感じないのに……羞恥心を煽られるというか、同じ男でもどう感じるかは相手によるってことか。
「よし、直った」
「あ……ありがとう、ございます」
 自分の間抜けさを露呈した挙句あろうことか上司に寝癖を直してもらって、更にはこの愉しそうで意地悪そうな満面の笑顔を見せつけられるなんて……。
 俺が都谷さんを苦手とするのはつまり其処で、傍から見たら恥ずかしいと思う事をさらりと遣ってくれちゃうのだ、この人は。驚愕と好奇心に包まれた周囲の目など全く気にせず──いや、関係ないといった風だからこっちが戸惑うわけだ。最近ではどうやらワンセットで女性社員の噂の的、格好の餌食にまでなっているらしく、あることないことが勝手に広まっている。時折感じる視線はきっと──いや、絶対にそのせいだろう。
 都谷さんの背中を見送りつつ、やっと解けた緊張に俺は胸を撫で下ろした。
 生まれもっての紳士気質なんだろうなあ——毎度これで、よく心臓がもっていると自分を褒めてやりたい。
 上司ということもあって都谷さんとの接触は多く、しかしあのレディファーストな精神が平凡な俺には刺激が強過ぎるのだ。一緒に仕事ができるのはとても嬉しいのだけれど、憧れだからこそ敢えて必要以上の接触を避けたくもあった。
(我ながら贅沢な悩み……)
「かずみちゅわあん」
「どええええ!?」
 粘着質な甘ったるいハスキーボイスとともに突然、俺の身体は背後から抱き込まれた。
「なんっ!? なん、なんっ……!?」
 驚きの余りパニックに陥った俺は言葉にならず恐怖心からか慌てふためく。
 俺の身体を拘束する両腕はストライプの入った光沢のある灰の生地に包まれていて、ふと、嗅ぎ慣れた香水の匂いが鼻を擽った。
「毎度お馴染みキュートな悲鳴をどうもー」
(き、きゅーと!?)
 白昼堂々この派手なスキンシップに、思い当たる人物は一人だけだった。
飛鷹さん!」
 がっちりとホールドされて振り向くこともままならない俺は、辛うじて身を捩って真上を見た。そんな俺を覗き込む飛鷹さんの顔は相変わらずのナルシストな微笑みを向けて迫り、反射的に返した俺の笑顔はさぞや引き攣ってたろう。
 飛鷹義成さんは俺の良き(?)先輩で、これでも未だ慣れないデザイン部の仕事に関して一から指導──いや、遊ばれて──いやいや、指導してくれている。
 拘束からは解かれたものの、悲鳴によって集まった周囲の視線が容赦なく突き刺さる。穴があったら入りたいってのは、こういう気持ちなんだろう。
「おはようございます、飛鷹さん」
 気を取り直し俺が一礼して挨拶すると何やら気に障ったのか、掻き上げた長髪から露になる目の前の端整な顔立ちは不意に怪訝な表情に変わった。
「飛鷹さん──じゃあなくてぇ、義成って呼べって言ったろぉ」
「勘弁して下さい……」
 デザイン部配属初日より飛鷹さんはどうしても俺に下の名前で呼んでほしいようで、事ある毎にこうして指摘してくる。直々に指導してもらっている職場の先輩に「義成」だなんて気安い呼び方、友達でも恋人でもないのに出来るわけがない──ていうか俺男だし。しかし何度断っても飛鷹さんは聞いてくれず、面倒だが俺も都度適当に相手をすることにしたのだ。
 失礼だが時々、この人実はソノ気あるんじゃないかと思ってしまうのだけれど。
「照ぇれちゃって可愛いなぁ、一美は」
「照れてないですって」
 何故こうも都合よく解釈できるのか不思議だ。
 いつもこの調子で悉く、俺の主張はさらりとかわされてしまう。飛鷹さんはこれでも三四歳の立派な大人なのだけれど、常人離れのポジティブさは手に負えないし、まともに応対していると飛鷹さん独特の妙なペースに呑まれるので、深く突っ込まないのが俺なりの鉄則だった。
 飛鷹さんは俺と頭半分くらいは差のある長身で、ノーネクタイに光沢のあるタイトな背広はホストのような出で立ちの上、ナルシスト相応の甘いマスクとくれば当然の如く女性社員にはモテまくりだった。残念なのはそのねっとりした甘ったるい喋り方にボロが出まくった発言と軟派な性格、俺にとっては──男相手でも言える表現なんだかどうなんだか──セクハラ常習犯というところだろうか。
「な、んですかっ……!?」
 呆れそのままを嘆息にした俺の顔を、覗き込むようにして屈む飛鷹さんの顔がずいっと鼻先にまで迫った。
(近っ!)
「憂い顔もそそるねぇ」
「は、いい?」
(口説くことしか能がないのか、この人は──)
「んー?」
 目を見開いてすぐ食い入るようにしながら眉間に皺を寄せる飛鷹さんの手に、いきなり俺の下顎はとられて透かさず上へ向かせられた。
「ちょおっ! 飛鷹さん!?」
 改めて見上げる飛鷹さんの顔がますます近付く。思わず見蕩れてしまいそうな飛鷹さんの真剣な眼差しに言葉を詰まらせたのは一瞬で、一歩間違えれば危うい距離に俺はその手を退けることも出来ずに焦るばかりだった。
「あ、あの、放して下さい!」
「目の下に隈ができてる」
(流石はプレイボーイ、男相手だろうと目敏い)
「これはっその、昨日夜更かしをしてしまって……」
「それって女ぁ?」
「ええ!? いえ、そういうんじゃ──っていうか、いませんから!」
 別段する必要のない否定を必死でする自分も謎だが、しないとならん空気が漂っているのは言わずもがな。
(っていうか近い! やばい! ひいいいい!)
 眼前の驚異に俺が半ベソを掻き始めたその時──
「だあっ!」
「だ、へ……?」
 スパーン!——と、清々しく小気味いい音が耳を劈き同時に、飛鷹さんが短い悲鳴を上げて俺の視界から忽然と消えた。
「いい加減にしろ、公然わいせつ罪が」
「あ。崇——」
「痛ってえだろうがっ! !」
 起き上がり小法師のように直ぐ様立ち上がった飛鷹さんは後頭部を擦りながら、不似合いに大きなハリセンを持った、まるで喪服姿の頭の先から足先までがちがちのインテリオーラを醸し出したその人──崇城肇さんに抗議する。俺にとっては救世主なので是非とも心からの感謝を述べたいが……。
「白昼堂々それも職場で、選りにもよって後輩に対してセクハラ行為とは、そんなに豚の餌を食らいたいか」
 崇城さんは眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら半ばうんざりした口調で鋭い眼光を飛鷹さんへと向ける。
「ちょーっと触っただけだろぉ」
「抱きつく行為を触ったとは言わん」
「あらやだ、見てたのぉ。肇ちゃんってばえっち」
 懲りずに茶化す飛鷹さんに崇城さんは眉間に更に深い皺を刻んだ。
 完全に置いてきぼりといった感じだがこれもまたお馴染みの恒例行事となっていて、有難いことに俺の逃げる隙にもなるのだ。
 しかし、本当に人の目を気にしない人達だ。出社時間とあって廊下は人で溢れているというのに全くそれを視界に入れないのか入ってないのか、自分達の世界で会話を繰り広げているようだった。それも通路のど真ん中で大の男が二人、片や類稀なるポジティブ思考で茶化しまくっているし、片や辛辣な言葉を並べ立てて軽くあしらっている。周りもすっかり慣れているどころか「今日も元気だな」とか「頑張れよ」とか、微笑ましそうな表情とともに普通に挨拶を投げ掛けながら通路の端を通りすがっていく。
「男同士なんだから別にいいだろぉ、減るもんじゃなしぃ」
「男同士であろうと猥褻行為であることに違いはない。自重しろ」
「あーもしかして、や・き・も・ちぃ・だったりしてぇん」
 蟀谷にぶち切れそうなほどの血管を浮き立たせた崇城さんが無言で、瞬時に振りかぶったハリセンが再び飛鷹さんの脳天を打つ。
 実際どれくらいの威力かはわからないけれど声にならない呻き声を上げる飛鷹さんの様子を見る限り、相当重い一撃に違いない。
「痛っだあ……肇てめえ、少しは手加減しろっての! アホになったらどうしてくれんだ!」
「学生時代から節操も学習能力も持ち合わせていない貴様に、それ以上零落する要素があるとでも?」
「使いモンにならなくなったら責任取って嫁にもらえよぉ」
「節操なしの浮気性など御免蒙る」
 猛抗議真っ最中の飛鷹さんを崇城さんにお願いして一礼をしつつ、そそくさと俺は見世物舞台を退場した。
 経理部勤務の崇城さんは必要経費以外にはたとえ相手が社長だろうと有無を言わさず一刀両断、慈悲もなければ仏の顔も一度足らずないと言われ、通称「経理の鬼」とか「数字のスペシャリスト」だとか、果ては常日頃の無表情から「鉄仮面」なんてふたつ名を陰で付けられている。
 飛鷹さんと崇城さんは同期で、入社当初に経費のことで派手な言い争いを披露して以来、狙ってもないのに何かとお互い絡むらしい。飛鷹さんの話では実は高校の同級生らしく、問題児と風紀委員の優等生だったとか……うん、まさしくって感じ。ちなみに崇城さんが装備していたハリセンは、対飛鷹専用武器、だそうだ。
 早朝行事から解放されて部署へ入ると苦笑いと共に労わりの言葉を掛けられた。
 飛鷹さんの性格は重々周知のことで、始めは励ましてくれていた同僚も今では面白がって煽り立てる始末。乾いた笑みを溢しつつもばつの悪さに萎縮する俺は、辿り着いた自分のデスクで項垂れて嘆息を吐いた。
「毎度お疲れ様だねえ」
「ひっ!?」
 またも唐突に頭上から声が降り、途端に顔を上げた俺は背後の気配にゆっくりと振り向いた。
「ご機嫌麗しゅう、王子様」
「ごっ……ごきげんうるわしゅう、です、浅見さん」
 思わぬ来訪者の出現に俺は驚きと緊張で混乱しながらも無様な挨拶を搾り出した。
 咄嗟のことで引き攣った愛想笑いを返してしまったのだが浅見さんは満足そうな笑顔を見せて、秘色のドレスシャツの袖を捲った腕を黒のスラックスのバーティカルポケットに差し入れながら俺のデスクの端に腰掛けるようにして寄り掛かる。
「飛鷹のアプローチは今日も熱烈だねえ」
「はあ……あ、あの、浅見さんは、如何致したのですか? お仕事のことで何か、あ──」
 動揺するあまり滅茶苦茶な日本語を吐く俺は、矢庭に浅見さんの真剣な眼差しに射抜かれた。そんなにおかしなことを訊いたかと俺は固唾を呑み、しかし浅見さんはにっこりと表情を崩した。
「毎日こうして会いに来ているというのに、意地悪な王子様だ」
「え? あ、え?」
「それならもっと、分かりやすく示した方がいいかな」
て──なんのデジャヴですか!?
 抵抗する間も無く下顎を持ち上げられて真上を向かされた俺の眼前には、切れ長の双眸を細める浅見さんの整い過ぎた顔があった。
「あ、浅見さん!?」
「目の下に隈があるぞ。それに、少しやつれているな」
「こ、これはちょっと、夜更かしのせいで」
「寝不足は労働者の天敵だ……この柔肌にも。程々にしておかないとな」
 毎度お馴染み華麗な浅見さんの言い回しは、俺の平凡レベルでは到底理解できない。それより問題なのは、薄く笑みを乗せた妖艶漂う浅見さんの顔が徐々に迫ってきている事だ。
「はい、気をつけます──ので、この手を離して頂けると……」
「やだ、と言ったら?」
「え?」
「お前からくれるのなら離してやってもいい」
 浅見さんの親指の腹が意味あり気に俺の唇をなぞる。
「ちょっうぇ!? や、こんな公衆の面前で……!?」
 冷や汗を掻きつつぐるりと視線だけを巡らせると周りは素知らぬ顔で、仕事の準備をしていたり面白がってひやかしたりと薄情な見物人らしか見当たらない。
 いつものことだけど、尊重されない俺の人権って一体……。
「公衆の面前でなければいいのか?」
「ちちち違います!」
「意外に大胆だな」
「いや! あの! そうじゃなくて──」
「程々にするのはお前だ、浅見」
 天の助けに思えた声色は厳しく咎めるようで、浅見さんの鮮やかな金髪靡く側頭部を、纏められた数枚の書類でぽんぽんっと叩くその姿が視界に入った。
 振り返る浅見さんの手は自然と離れ、何度目かの解放感を味わう俺は仕事もまだなのに憔悴していた。
(連続して同じ目に遭うなんて……今日は厄日か?)
「うちの人間を茶化す真似はよせと言っただろう」
「茶化しじゃない。口説いているのさ」
「口説くのも禁止だ」
「男の嫉妬は見苦しいぞ、左京」
「何を馬鹿言っている」
 都谷さんは呆れて息を吐く。
(ああ、デジャヴだ)
 ああだこうだと論点のずれた会話を繰り広げる浅見さんに対して、ああでもないこうでもないと至って冷静沈着な都谷さん。渋メン二人が揃って目の前にいるなんて、会話の内容がまともだったらこの状況は酷く絵になって女性社員なら大喜びだろうに……今まさに遠巻きに数名の女性社員からの視線をひしひしと感じるし。
「朝から職務放棄をするな」
「むさ苦しい中にいると息が詰まるんだよ。ここなら英気を養える」
「用が済んだのなら持ち場に戻れ」
「厳しいねえ。俺にも優しくしてほしいものだ──王子様にするみたいに、さ」
「日頃の行いの問題だ」
 浅見さんが最後の方で都谷さんへ耳打ちした言葉は聞き取れなかったけど、答える都谷さんの表情が一瞬間険しくなったのを俺は見逃さなかった。
 浅見佐智さんは第一営業部の部長でフロアも違うのだけれど、仕事の用事以外でもよく、このデザイン部に出入りしている。派手な金髪がトレードマークの浅見さんはクォーターで、髪の色や宝石のようなエヴァーグリーンの目の色はお祖母様譲りだそうだ。営業マンとしては初対面の相手方に身構えられることも珍しくないらしいがそこはそれ。語らせたらペテン師である──社内での賛美を表した二つ名で他意はない──浅見さんの巧みな話術に誰もが惑わされてしまうのだった。
 聞いた話によると都谷さんと浅見さんは幼馴染みで、幼稚園から高校まではずっと一緒だったらしい。大学からは浅見さんが海外留学をしたとかで一度別れ、再会はこの会社。都谷さんがデザイン部部長に就任して半年ほど経った頃だったとか。
 昔からこんな感じだったんだろうか──ふっと目の前に影が差して、ピントを合わせるように自然と俺の目線も寄る。
「そんなに情熱的な目で見られると、今すぐここから連れ出して、誰の目にも触れないところで思う存分可愛がりたくなるねえ」
「いっええ?!」
「やめろと言うのに」
 すかさず都谷さんが手に持ったままの書類で浅見さんの頭をぽんっと叩く。浅見さんは「ジョークだ」と笑って俺へ向けてウィンクした。
 飛鷹さんの随時セクハラ営業も凄いけど、浅見さんの濃厚セク──スキンシップは俺にはスリルがあり過ぎて脳髄回路が沸騰してしまう。都谷さんがいなかったら冗談抜きで貞操の危機もあり得るかもしれない。
 なんやかんやで第一営業部から追手──もとい迎えが来て、俺との別れを惜しみながら浅見さんは優雅に連行されていった。
「騒がしくしてすまないな。大丈夫か?」
「はい、大丈夫です。有難う御座います」
浅見のことで困ったことがあれば遠慮なく言ってくれ。まあ、私の話を素直に聞き入れるとも思えんが」
「あはは……」
 既に諦めの嘆息を吐く都谷さんに俺は、いつにも増して賑やかな一日の始まりに果たして、今日をまた無事に過ごせるのかと乾いた笑いを漏らさずにはいられなかった。

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