Lovers Tale
BL/ML/ラブコメ短編集
紳士な上司 紳士な上司とその誘惑
秋も半ばという季節がら、一九時ともなれば外はもう真っ暗だ。いつもならとうに家にいて、夕飯も済ませてのんびりしている時間──の、はずだが。
「えーと、次はっと……」
俺──鷲原一美は今、哀しくも残業真っ最中。容赦ない先輩命令なのだから、仕方ないと諦めてしまえばそれまでで、だからと言って断れるはずもなく、結局は残業という形になってしまっていた。
さっさと終わらせて帰りたい……。
「今日の夕飯は、なんにしようかなあ」
帰り道のコンビニデザートにささやかな思いを馳せながら、嘆息混じらせ着々と仕事をする。こういう時間は楽しかったりするのだが、お腹は待ってくれないのが正直なところだ。
「ん?」
空腹ばかりに気を取られていた俺の耳に、突如聞こえてきたのはオフィスの電話のコール音だった。
「お電話有難う御座います。アウトサイダークリエイティブ・ヴァルールでございます」
〈都谷だ〉
発せられた声は電話越しでも変わらない凄艶を帯びた重低音。するりと難なく耳に入ってきた瞬間、心臓が大きく唸った気がした。
「お、お疲れ様です」
〈お疲れ様。飛鷹はいるか?〉
「飛鷹さんなら、用事があるとかで帰られましたけど──」
電話越しだろうと都谷さんの声を聴くのは珍しくもないのに、俺は妙に緊張してしまって巧く口が動かなかった。
〈そうか。鷲原は? まだ残っていたのか?〉
「はい。えと、やることがありまして……」
躊躇いながらも残業の理由を説明すると都谷さんは飛鷹さんに対して、しょうがない奴だ、と、呆れたような息を吐いた。まあ、サポートなんてのは雑用扱いが常だから俺はもう慣れてるけれど。
〈私は今からそちらへ戻る。あまり無理はするなよ〉
返答すると都谷さんは電話を切り、それを確認した俺もおかしな緊張感から解放されたと受話器を戻しつつ一息吐いた。
都谷さんには総務部にいた頃も何かと気にかけてもらっていたのに、今でも変わらず緊張してしまう。やはり尊敬する人だし憧れてもいるわけだから、慣れる慣れないは関係ないのかもしれない。でもなんか、毎回情けない姿しか見せていない気もする。この前は脚立から落ちたところを助けてもらったし……。
俺もいつかあんな風になれたらと思う。でも、迷惑しかかけてない今の時点ではそれも望めない気がしていた。
無理はするなと言われたものの、正直、面倒なことは今日中に終わらせておきたかった。それに、都谷さんが一度帰社するのなら、まだ残っていても問題はないだろうとも思ったのだ。どうせ帰るなら挨拶だけでもしておきたいという、ファン心理さながらの気持ちもある。
都谷さんからの電話がきてから三〇分ほど経った頃。頼まれていた仕事の三分の二ほどが漸く終わって終始パソコンのモニタとにらめっこ状態だった俺は、両腕とともに背を伸ばすとそのまま頭の後ろで手を組んだ。
高い天井を見上げながらぼーっと一休みをする中、その気配に気付いたのは横から差し出された茶色の紙袋が視界の端に映り込んだ時だった。
「腹、減っているだろう?」
何か入ってるだろう紙袋から腕を辿って見上げた先には都谷さんの笑顔があって、予想外の不意を突かれた俺は途端に固まってしまった。
「え……? あ、すみませ──え!? あの、これ……!?」
寄越されたからと流れるままに両手で受け取った俺だったが、やはり困惑に陥ったのは言うまでもない。
確かに腹は空いている、ただ、この展開は予想出来るはずもないことで──だってまさか都谷さんからだとは……。
都谷さんは紙袋を手渡すと困惑する俺の後ろを通り過ぎ、隣接するデスクにコートを置いて椅子へと腰掛けた。同時に目の前に置かれたのは今、俺が手渡されたものと同じ紙袋だった。
「本当のことを言ってしまうと、私が付き合ってほしいんだ」
「え?」
片眉を下げるのは都谷さんの笑う時の癖だ。苦笑いする彼が目の前の袋から取り出したのは二つの紙製のコップ。恐らく中身は温かい飲み物なんだろうと、上部の蓋の部分を持つ長い指の手つきを見て思った。
「自宅に帰るまで持ちそうになくてね。鷲原がまだ残っていたから、是非、夕食に誘おうと思ったのだよ」
そう言われて俺は自分に寄越された袋を開けて中身を取り出した。一人分にしては袋のサイズと膨らみがなんとなく大きいと感じたのは、俺と都谷さんの二人分のサンドイッチが入っていたからだった。
「もう終わるのだろう? 何時間でも待つつもりではいるが、餓死しない程度には頼む」
ちょっと意地悪な笑みを浮かべる都谷さんの顔を直視していられず──この人はなんでこういう気障な科白回しをするんだろう。言われてるこっちが恥ずかしいし、どうしようか困るじゃないか──俺は火照る顔を隠すように咄嗟にパソコン画面へと向き直った。
「い、いいですよ! 僕に構わず、先に食べてください。部長のことを待たせたりしたら、バチが当たります」
俺は都谷さんがどんな表情をしてるかなんて分からなくて──まして見る勇気もなかったし、見たら俺が今どんな顔をしてるかもバレてしまう──でも、視線だけは痛いくらいに感じていた。
「それも困るな」
呟いた掠れる声が通る。頭の中がスピーカーにでもなったような、そんな幻覚を味わわされる。
「な、んで、ですか?」
俺は一言返すにも必死だった。顔は熱に浮かされたような気分で恐らく紅潮しているだろうし、都谷さんの言うこともすることも俺には幻覚剤の一種で、自分で自分が何も分からなくなる感覚に陥らされるのだ。たとえるなら、そこそこの酒量を摂取してほろ酔い状態といったところか。
「せっかく君と一緒に食べようと思って買ってきた夕食を、お互い別々に食べてしまったら意味がないだろう」
「そ、んなこと……」
都谷さんの言ってることは理解できる。確かに、こうして一緒にいるのだから別々に食べることはない。寧ろ誰かと一緒に食事をした方がご飯は美味しく食べられるのだと子供の頃に母さんがよく言ってもいた。でも、今の俺に重要なのはそれよりもこの状況で、今の自分の状態でもあって……。
どうしてこんなに緊張するんだろう? ただ一緒に夕食をするってだけじゃないか。ただ、それだけのことで──。
「私は二人がいい」
キーボードを打ち続けていた手がぴたりと止まった。たったその一言だけで、全ての時が止まったように思えた。それは自分の意思というよりも、俺自身の把握してないどこかの意識がそうさせたような──分からないが、そんな気がした。だから気恥ずかしいとか、こういう、都谷さんに対して普段感じてる気持ちがこの時は起きなかったのだ。普段もこうやって落ち着いていたら、あんな醜態ばかり見せなくて済むのだけれど。
「すぐに終わらせます」
横目で一瞥した都谷さんの表情は、俺にはどこか、嬉々として見えた。