Lovers Tale
BL/ML/ラブコメ短編集
紳士な上司 紳士な上司とその逢引
本日、鷲原一美は一大決心を胸に半日を過ごしていた。
お昼休憩まで後一分足らず。俺は腕時計を睨んで、一分一秒でも早く時間が流れるのを待ち侘びていた。そうして頭の中では只今真っ最中の会議に出席している都谷さんのことを考えていたのだ。
いくら長引いてるとはいえ流石にもう終わってもいい頃だ。終わらないとしてもお昼休憩くらいは取るはずだと、とにかくそうなることを俺は願いつつ、実行への高まる緊張の中で一人カウントダウンをしていた。
睨み付けていた腕時計の長針と短針が一二の数字に重なった時、ピークを迎えた心臓は体外に飛び出してしまいそうな勢いをもって打ち鳴る。
「う……」
肝心なのはこれからだというのに今からこんな状態では最後まで持ちそうにない。というかその自信もないが、ここで挫けたら男が廃るというもので、俺は喚くそれを鎮めようと何度も深呼吸を繰り返した。
「よし。行くぞ」
若干の震えを余韻に、改めて気合いを入れ直した俺はデスクに両手を着いて椅子から立ち上がった。
「何処へ行くんだ?」
「都谷さんにお話があるんです」
「それなら、回れ右をすればいい」
「え──?」
回れ右は充分過ぎるくらいで、言われるがまま振り向いた先には目的の人が──いつもの穏やかな微笑を湛えた都谷さんがまさにそこにいたのだ。無論、例の如く仰天した俺は刹那の勢いで後退した。なんとも情けないことこの上ない。
「漸く会議が終わってな。今日は特に長引いた」
「お……お、お疲れ様です」
動転しながらも言葉を発する俺を見て、都谷さんは更に目を細めた。
「それで、私に話があるのだろう? 仕事の話か?」
「あ……えと、それは……」
体勢を直して都谷さんを前に立つ。真っ直ぐに顔を見ようとしても視線が上がらず、俺は伏せ目に右往左往泳いでた。
心の準備は万端だった、そのはずだった。でもいざ都谷さんを前にするとなんだか妙に落ち着かなくて、心臓は五月蝿いのに体は硬直してしまっていた。
普段ならこんなことはない。ただ今日は俺にとっては特別で、昨夜から今だって考えていることがあるのだ。それを実行するためには先ずこの難関を突破しないことには始まらない。ここまできたら当たって砕けろの精神を持たないと……。
「あの、都谷さん」
「なんだ?」
「き、今日はおれ──!」
そこまで口にしてから俺は、体中を串刺しにされているような異様な感覚に気付いた。あまりに痛く感じて横目に見渡すと、あろうことかその場にいる全員が出歯亀と化していて、その瞬間俺はここがオフィスで公衆の面前だという重要な事実を思い出した。
「どうした?」
そんなのは目の端にすら入らない一切無関心のこの人は、俺の様子を不可思議に思いながらも続きを促す。しかし当然ながらこんなところで言えるわけがない。言ったらそれこそ、ただのあらぬ噂を肯定してしまうことに成り兼ねないのだ。それだけは避けないと後がややこしくなる。
「すみません。ちょっと失礼します」
俺は咄嗟に都谷さんの手を取り、いつも持参している保温バッグを片手に持って集中豪雨の視線をはね除けつつオフィスを後にした。
後ろから甲高い超音波並みの声が飛び交ってたが、その理由に気付くのは僅か数時間後である。
都谷さんを連れ出した俺はすぐに、今時分使われてない部屋へと入った。少しこじんまりとした一室は各々の部署が使う簡易性の会議室だ。突発的なことに思わず呼吸を止めていた俺は部屋に入るなり目の前の長机にバッグを置いて、そのまま両手を着きながら大袈裟に息を吐いた。
危なかった。あまりの緊張にすっかり我を忘れていた。あのまま気付かなかったら肝心の続きを確実に言ってたところだ。
「大丈夫か?」
「ふお!?」
急に至近距離で顔を覗かれ、またもや一驚した俺は反射的に仰け反るも損ない、後ろに倒れそうになるところを都谷さんに腕を掴まれた。
「す、すみません──うわっ!」
「おっと」
掴まれた腕を引かれて自分でも起き上がろうとした結果、反動で俺の体はそのまま導かれるかのようにつんのめり、受け止めようとした都谷さんの肩口へと顔面から突っ込んだ。
都谷さんの肩幅は俺より広くて温かくて、それに何かは分からないけれど甘い匂いがして、やっぱり心地好かった。
「平気か?」
「ふぁい、ちょっと鼻をぶつけただけで……何度もすみませ──っ!!」
顔を上げると再び至近距離に都谷さんの顔があった。俺と都谷さんの身長差はそれほどなく、覗き込むよう傾けられると見上げているこちらとの距離がますます縮まるのだ。それは吐息も交わせるほどに。
「のわああああ! 本当すみません! 俺ってドジばっかりで!」
紅潮してるだろう顔を近くで見られたくなくて思い切り飛び退けば、きょとんとした都谷さんの表情が目に入った。しかし次にはそれが一気に破顔した。
「え?」
「くくっ……はは、あはははは!」
今俺は世にも珍しい光景を目の当たりにしている。何故ならあの都谷さんが、普段は薄く笑みを湛えているに留まる都谷さんが、口許を覆っていても堪え切れずにお腹を抱えて哄笑してるからだ。
「つ、都谷さん?」
「すまん……どうにも可笑しくて……!」
何がですか!? 俺何かしましたか!?
それから少しして、どうやら落ち着いたらしい都谷さんは大きく一つ息を吐いた。
「あのう……僕、何か変なことしましたか?」
「いや──この前の資料室でのことといい、君は本当によく転ぶなと思ってな」
「あ゛」
そうだった。脚立から足を踏み外して落ちたあの時も同じように都谷さんに助けられたのだ。そしてあろうことかその衝撃的場面をちょうどそこへやってきた女性社員に目撃されてしまい、不可抗力の新たな誤解を生んでしまっていた。だからこそこれ以上の、ただならぬ関係という卑猥な噂を助長するわけにはいかない。まして相手は上司である都谷さんだ。たかが噂などで迷惑をかけたくはなかった。しかし、今回ばかりはどうしても譲れない理由があるのだ。
「それで? 話というのはなんだ。人前では言えないことなのか?」
俺の様子を窺うようにして少し首を傾げる都谷さんは優しくそう問い掛けた。俺はすっかり忘れていた緊張をまた取り戻してしまい、心臓が早鐘を打ち始めた。
「あっえと、その……ええと……」
静まる部屋の中ではきっと──俺にだけではない──この身勝手な鼓動が響いている気がしてならなかった。それを都谷さんにも聞かれている気がして、沸き上がる羞恥心は止められそうになかった。
早くしないとタイムリミットがきてしまう。これ以上長引かせたら都谷さんに迷惑をかけるし──というか既にかけてるし。というか朝から鏡見て何回も練習したくせに今更何を怖じ気づいているんだ俺は。そりゃあ確かに鏡に映るのは自分に決まってるんだから、いざ本人を前にしてあっさり言えるものならこんなに苦労はしていない。でもだからって純粋な女子中学生がクラスメイトの男子に愛の告白をするわけでもあるまいし、二〇代後半にもなった自立している大人がここまで馬鹿みたいに緊張するのは如何なものか!?
ここまできて後には引けない。覚悟は潔く決めるためにあるのだと、臆病な自分に言い聞かせた俺は一度深く呼吸をして、辛抱強く待ってくれている都谷さんを見据えた。
「都谷さん!」
「なんだ?」
都谷さんは苛立ちもせずにいつもの笑顔を返してくれる。
「き、き、」
「ん?」
「今日のランチ、僕とご一緒して下さい!!」
言えた!
「あ、えと……もうとっくにお昼休みですが、というか俺がいつまでも待たせてしまったせいなんですけど……きの、昨夜のお礼というか、ご馳走になったので、その……」
我ながら下手な言い訳じみていて、俺の視界はだんだんと足許へと落ちていった。肝心の都谷さんは何も言わずに黙ったままで、それが余計に重くのしかかる。
そうして気付いた。俺は誘うことは考えてたけど、断られるかもしれないという予想はしていなかったのだと。
何事にも良い結果と悪い結果があるのだ。俺はそんな単純なことをすっかり忘れていて、自分勝手な気持ちを押し付けて都谷さんの優しさに甘えていた。情けないというよりも惨めで、最低だ。
「あの、あ──」
「では、有難くご馳走になろうか」
「え?」
思わず見上げた目の前には──寧ろ初めてかもしれない──これまで見たことのなかった、満面に浮かぶ柔和な微笑みだった。
「味……どう、ですか?」
思春期少女ばりの俺の勇気は何とか報われ、只今当初の目的だった昼食を都谷さんと肩を並べて食している。いつもは一人分しか作らない手製の弁当も今日は二人分のため、戸棚の奥から引っ張り出してきた小さいサイズの重箱に豊富に詰めてきていた。保温バッグから取り出して広げた時には目を丸くしていた都谷さんは、俺から箸を受け取ると丁寧に手を合わせて、手作り弁当の王道の一つであるだし巻き玉子を一口食んだ。
「うん、旨い」
口角を上げて目を細めるその表情を、返答を待って覗き見ていた俺には充分過ぎる反応だった。
「良かった! いただきます!」
勿論味見はしていたのだが、嗜好は人それぞれのものだから不安はあった。総務部にいた頃はお姉様方とおかず交換などをしたものだが、こうしてちゃんと両親以外の人に作って食べてもらうのは初めてなのだ。しかも相手が都谷さんともなれば感じるプレッシャーは並大抵のものではなく、お陰で寝不足だったりもする。それなりに器用なほうだとは思うがそれほど得意というわけでもなし、一人暮らしをするなら健康管理も自分で出来るようにと母から懇切丁寧に教えてもらったとは言っても、結局自分のために作るだけならそんなに凝ったものは作らないのだ。そういうわけで今回この弁当を作るにあたって母に電話で連絡を取り、和食中心におすすめのレシピを教えてもらったり、助言をもらったわけだ。それに俺は、料理というのはどちらかと言えばセンスの問題だと思っている。つまりは自身のセンスを問われているわけで……。
「そうだ。このお茶、行きつけのお茶屋さんで茶葉を選んでブレンドしたものなんです」
俺はバッグから水筒と紙コップを取り出すと、温かいお茶を注いで都谷さんに手渡した。
「他にもあるんですが、僕はこの味が一番好きなんですよ」
一口付けた都谷さんの顔は綻んで、味わうように二口目を付けてた。どうやら気に入ってもらえたらしい。
昨夜のお礼にランチに誘うという課題をクリアし、不安に思っていた味の方も大成功なのだが、ただ一つ予定が狂ったのはその場所だった。今日は晴天で空気も暖かいから本当は外で食べようと俺は考えていた。でもオフィスでの様子を見る限り、流石に目立つし更なる注目の的になるだろう。会議室なんて場所じゃ味気ないが、それも仕方ない。
何とか無事に──殆どトラブルだらけだったが──昼食を済ませ、俺と都谷さんは会議室を後にした。
「なんかドタバタしてしまって、すみませんでした」
「いや、なかなか愉しめた。弁当も旨かったしな」
「あ、有難う御座います。そう言って頂けると、作ってきた甲斐があります」
素直に嬉しくて、俺は自然と顔が綻んだ。
「また──」
「はい?」
「また、味わってみたいものだ」
そう言って微笑う都谷さんもまた嬉しそうで、俺はますます舞い上がってしまった。
「はい! また是非!」
一段と張り切る俺の後ろ頭ら辺を、都谷さんはぽんぽんと優しく撫でた。
数時間後、この一連の出来事が新たな話題となり、理解しがたい女性社員の嗜好を昂らせたのは言うまでもない。