Under Tale
書き捨て短編集
久多良木事務所
都心からちょいと外れた市内の某所。コンクリート造りの建物が連なる閑静な住宅街に交じって、レンガ壁で四階建ての建物が妙に浮いて在る。シャッターで閉め切られている一階部分にはカメラ付きインターフォンとオートロックの扉が一枚あるだけで、看板や表札の類は一つもない。少々謎めいた印象を与える西欧建築風の建物の中を、人感センサの照明に迎えられて正面に据える階段に不気味さを感じつつ辿り着いた、二階フロアでようやっと「久多良木事務所」と書かれたすりガラスの窓がついている扉を目にすることができる。
ワンフロアの二階事務所ではいつものように、前髪の長さをきっちりと眉の位置に揃えた戀口助手が上司のためにコーヒーを淹れていた。サイフォンで丁寧に抽出されたコーヒーは99円ショップで購入した、どこぞで見た惚けたクマの絵柄のマグカップに収められ哀れ砂糖とミルクに侵されようと、部屋中にその香りを漂わせながら新聞紙を広げてごま煎餅をばりばりと食らう上司の元へトレイに乗せられ運ばれていく。
戀口はごま煎餅の盛られた木製の器が浮き立つエグゼクティブデスクにマグカップを置くと、これまた不似合な革製のリクライニングチェアにだらしなく座り込んでいる、掻き上げただけのボサボサ頭をした上司である男を前に嘆息を吐いた。
「所長、やる気あります?」
「んー」
「ないですね」
「んー」
所長である久多良木の気のない返事はいつも通りで、戀口の幾度の嘆息もまたいつも通りである。
呆れる助手を余所にマグカップを手にして久多良木はふーっと冷ます仕草をして、恐る恐る一口つけたが淹れたては猫舌には厳しく、うっすらと皺を蓄えた目元を顰めて短く呻くとマグカップをデスクへ戻した。
「まったく……そんなんじゃ依頼人も逃げちゃいますよ!」
「大丈夫だ、来やしない」
「来ないことが問題だということに、そろそろ気付いて下さい」
「来ようが来まいが不自由はしてねえだろう」
新聞紙を下す久多良木は面倒臭そうに戀口を見遣る。
「それはまあ──ちゃんとお給料は頂いてますし、タダで部屋を貸してもらっている上に、食費も光熱費も面倒をみてもらってますから」
繁盛しているどころかこうして暇を持て余すばかりが久多良木事務所の日常だというのに、諸々の金銭はどこから捻出されているのか──戀口曰く、久多良木所長の不思議の一つである。
「じゃあ、いいじゃねえか」
久多良木はデスクの下から45Lの半透明のゴミ袋を取り出してその口を広げると徐に立ち上がり、シャツに溜まった食べかすをぱたぱたと叩き落とす。
実のところ久多良木事務所にはオーナーなる存在がいて、建物自体がそのオーナーの所有物なのだがしかし、久多良木は必要のないことは一切話さないため所謂パトロンなぞいう個人的関係の裏設定を戀口が知る由もない。果たして信用されているのかいないのか──戀口が事務所へ来てから四年もの付き合いも、虚しいことに久多良木には単なるその程度でしかないのだろう。その割には建物内の清掃を好きにさせたり炊事洗濯も戀口任せですっかり小間使い扱いなのだが……戀口自身、世話になっている恩義とぐうたら人間を前にして放っておける性分ではないのでパートナーとしての相性は最良なのだ。
仕事を全うしようとする自身の言い分に対して毎度ずれた返答をする久多良木に、戀口はもどかしくて仕方がない。
「いや、だから。そういうことじゃなくてですね──」
「『楽に稼げる仕事なんておいしい!』って、思っておけばいいんだよ」
「ふぇ?」
突如降ってきた声は天の声などではなく寧ろ悪魔の囁き。
間抜けな声を発する戀口の視界にはどこからともなく現れた──無論、一つしかない鍵付きの出入り口からである──存在自体がやたらきらきらしていて喧しい眉目秀麗の男が、久多良木の尻を撫で回している姿があった。
「今日もいい感触してるねえ、ク・タ・りいん」
「い゛!?」
ぞわりと肌を立たせた久多良木は振り向きざま鉄拳を繰り出し見事、顔面ヒットした男はロケットのごとく弾き飛ばされて後方の本棚を大破させた。
「触んじゃねえって言ってんだろうがっクソ野郎! 潰すぞ!」
「いえ、既に殴り飛ばしてます」
(あー……買い替えたばかりの本棚が……)
二週間前にも同様の事件が起こり、やはり新品であった本棚はあえなく犠牲となっていた。事務所の家具の買い替えなども費用を除いては戀口に一任されているので今回は頑丈な作りのものを新調したつもりであったが、結果を見る限り無駄な足掻きであったようだ。
「ほんと照れ屋なんだからなあ、クタりんは」
(立ち直り早っ)
摩訶不思議なのは本棚に突っ込んだ当の本人は物ともせずすっくと立ち上がり、顔面クリーンヒットした筈の拳の痕さえないことだろう。
常備されている戀口作呉専用湯呑に、戀口は丁寧に玉露を淹れて招かれざる客人を持て成す。
呉は客というより身内のようなもので──こんなことを言っては久多良木の鉄拳が作者にまでヒットしそうだ──抜け目のない戀口は無論、彼の大概の嗜好をも把握している。しかし過剰な親しみは呉のセクハラ気質を刺激し、それは正統生真面目常識人の戀口にも魔の手が及ぶことを示唆し、その結果、久多良木の親心(?)が発動して容赦のない鉄槌が呉に下され、やはり家具──事務所を惨状へと導くのでお客様用の茶葉で当たらず障らずの距離を保っているというわけだ。全く出来過ぎる助手である──と言いたいところだが、つまりは経験から来る教訓であった。
「呉てめえ、何しに来やがった?」
リクライニングチェアに座り直し、不機嫌を露わに眉間に深い皺を寄せる久多良木は呉を睨む。
「僕を恋しがる、愛するクタりんの声が聞こえてさ」
どこ吹く風の呉は何十年前ですか宛ら、ブラインドのスラットを指で下げて憂い気に外を見ている……死ねばいいのに。
「ねえよ、微塵も呼んでねえ、一生呼ばねえ、天地引っ繰り返ろうが有り得ねえからとっとと失せろ、死ね、今すぐ昇天しろ」
(あはー、相変わらず容赦のない)
「そんなツンデレな君に僕はメロメロさ」
(どうしたらそういう解釈になるんだろう……)
久多良木のマシンガン暴言罵倒も呉にはなんのその。顔を寄せて更なるセクハラを狙う呉の顔面をすかさず久多良木は平手で押し返した。
「デレねえよ!」
「そこ!?」
長く居座ると突っ込みにも磨きがかかるというものだ。成長の証だよ、戀口君。
電話も飛び込み客もないまま、繰り広げられる漫才をよそに戀口は日課の掃除を始めていた。
事務所の隣──扉一枚隔てた先には久多良木の第二の居住スペースがある。本来のプライベートルームは最上階で、その階下──事務所の上の三階フロアが戀口の部屋となっている。どのフロアにもキッチン、シャワー付きバスルームとトイレ、エアコンが完備されており更には床暖房、室内以外は人感センサの照明と建物全体が防音という設備の充実した造りとなっていた。
自室があるにもかかわらず久多良木が主に使用しているのは二階フロアだ。「階段の乗り降りがいちいち怠い」というのが無精久多良木の言い分だが、それならば初めから四階フロアではなく二階フロアの半分を拠点にすれば良かっただろうと突っ込みを入れりゃあ「仕事とプライベートが隣同士じゃリラックスできねえだろ」という矛盾を主張する。全くもって面倒臭い男である。
「へっくしょい!」
その上、自室である四階フロアも戀口に掃除させているのだからプライバシーもへったくれもない。
「へっくしょい! あー畜生」
「二度のくしゃみは悪い噂だね」
「迷信だ、ばーか」
セクハラ解釈のポジティヴィストへの突っ込みもその存在にもとうにうんざりしている久多良木は、使い捨てライターのホイールを擦るとハイライトの紫煙を燻らせた。
「だから何しに来たっつーんだよ? てめえは」
「クタりんとの愛を育みに──」
「その目出度え脳天かち割るぞ」
途端に立ち上る殺気にも呉は臆することなく、いやらしい笑みを貼り付ける顔の横に両手を広げる。
「ついでに仕事を持ってきたんだよ」
通称セクハラ魔の呉は大概、愛する久多良木へのお触り──特に尻を撫で回したり揉んだり、時には隙をついて抱きついた挙句に身体中を撫で回したりなどなど──目的で事務所を訪れるがしばしばセクハラついでに、あくまでもついでに仕事を斡旋することもあった。
「どんな仕──」
「断る」
「え!?」
久しぶりの仕事に期待を膨らませる戀口を久多良木が阻んだ。
「まだ何も言ってないよう」
「てめえの仕事はろくなことにならねえ」
「あ、そういえば……」
久多良木の懸念を察知して苦笑を浮かべる戀口に、呉は一人小首を傾げる。
「なんだい?」
「ばっくれてんじゃねえぞ、呉。先月てめえが持ってきた浮気調査では、調査対象の旦那が依頼人の嫁さんを怪しんでここまで尾行して乗り込んできやがって、ちょうど疑惑確定で報告の最中だったもんだから、旦那の浮気にぶち切れた嫁さんが危うく旦那を殴り殺すとこだったんだぞ。うちの備品が凶器で、ここが殺人現場になるとこだったんだよ。てめえに説明しただろうがっ」
「飛んで火にいるなんとやら、ってやつだよねえ」
思い出して呉はぽんっと手を叩くも憎らしいほどの微笑は変わらずまるで他人事だ。
悠長な呉の態度に久多良木はぴくりと顔を引き攣らせる。
「この前の犬探しなんてなあ。そいつを見つけた空き家で死体なんつーオマケがついてきて、近所のババアにタイミング悪く目撃されて通報されて犯人扱いでマッポに連行された挙句、犬も誘拐したんじゃねえかってわけわからんいちゃもんまでつけられて、依頼人と連絡取れるまでの数時間拘束されたんだぞ俺は」
思い出せば出すほど久多良木の腸は煮えくり返り、「貴重な体験だよねえ」なんてニコニコしながら適当なことをほざく元凶である男を即刻、拷問にかけて自分が受けた屈辱以上の苦しみを味わわせてやろうかという殺意も湧く。久多良木ラブの呉にはこの上なく美味しい展開でしかないが。
「クタりんが人殺しだなんて、ランランが本気で思うわけないじゃない」
そう的外れでもないが重要視すべき問題を華麗にスルーしまくる呉に不機嫌マックスの久多良木は、怒りに任せて足を踏み鳴らし椅子から立ち上がった。
「あんなクソはどうでもいい! そういう問題じゃねえんだよ! こちとら信用第一の客商売やってんだ、マッポに疑われたってだけでケチがつくんだよ!」
(そう思うなら、もう少しやる気を出して下さい)
戀口の切実でもっともな胸の内は密やかに呑み込まれた。
「日頃の行いが悪いからだろう、駄所長さんよ」
漫才トリオの噛み合わないボケと突っ込みに割って入る聞き覚えのある声に、久多良木の耳がぴくりと反応を示す。
「あんだと? ゴルァ」
蟀谷に怒筋を浮かせた久多良木が振り向くと、またもどこからともなく現れた──大事なことなのでもう一度言うが、一つしかない鍵付きの出入り口から堂々と侵入してきたのだ──スーツ姿で凶悪面の男が他人の家にもかかわらず偉そうな態度で立っていた。
久多良木は凶悪面の男──ランランもとい、乱童を見るや否やますます眉間に皺を寄せてずずいと迫る。
「無許可土足でうちの敷居跨いでんじゃねえぞ、ポリ公。無実の人間さんざ犯人扱いで嬉々として拷問しくさりやがって、鬼畜変態野郎が」
「他人の粗探しなんて悪趣味な商売をしているお前よりは、全然世の中で重宝されてるんだよ、敬え」
「てめえも同じだろうが、ああ? マッポじゃなきゃ犯罪者確定の変態嗜好が偉そうに抜かしてんじゃねえよ」
「お望みなら、今度は監禁緊縛プレイで持て成してやるよ」
見た通り犬猿の仲である久多良木と乱童のいがみ合いは毎度のことで、戀口でさえ特別被害のない二人のやりとりを余所に既に新たな客人へのお茶を用意している。
「独り占めはずるいよう、ランラン」
「てめえはすっこんでろ! セクハラ野郎!」
空気を読まない呉のボケも炸裂する中、久多良木と乱童の闘争は留まることを知らず急速にヒートアップしていく。
新生漫才トリオの乱痴気騒ぎを気にも留めない戀口はまるで別次元からやってきたようなノリで、小さなトレイに乗せた玉露入りの乱童専用湯呑みをエグゼクティブデスクへと置く。
「本当に仲良しですよねえ。はい、乱さんのお茶です」
「だよねー」
「ねーよ!!」
喧嘩するほど仲が良いという言葉を表すように、久多良木と乱童は見事に息の合った声を上げた。
ありがとうございます!