Under Tale
書き捨て短編集
狗
轟く雷鳴が漆黒の大地を目覚めさせる。邪悪なる者は災いを以って、血塗られた聖地を築くだろう。
翼を持たぬ者は獄の都へ悪しき魂の贄となり、禁断の書を開いた者は闇の言霊に誘われ、果てなき責め苦の拷問を受けるだろう。
背者は語る。
「我が足元に跪き、我が名の下に不滅の忠誠を誓え」と。
──「獄」より引用抜粋──
心臓の鼓動が聞こえないか。
波打つ脈の音を知らないか。
脳髄を刺激して五感を麻痺させる粗悪は誰の手にもある。
だが、中枢神経をいかれさせるほどの快楽は、僅かながらの隙間にしか埋められていない。
真っ白な部屋に白いベッド。顔と首を薄汚れた包帯で無様に巻かれ、座ったままのベッドの上で自由を奪うのは、ベルトで固定された手足の拘束具と繋がれた鎖。巻かれた包帯の隙間から覗く嗤う口と赫い眼光に滾る欲は、ただ獲物を捉えるためだけにあるようで今は虚無を思わせる。思えば何時でも好きに取り戻せる自由を前に、飼われてやることに厭きもせず面白がっては余裕さえ見せていた。
狗──与えられる事より自ら狩る事に快楽を欲し、常に自由で在り続け、誰にも囚われず従わず生息する異端児。ヤツを動かすのは簡潔な“欲求”であり、それ以上も以下も無く無駄に侵すことはしない。必要であれば求める──人間と然程変わりない。差別。偏見。化物だからと咎めるのは植え付けられた恐怖と備え付けの独裁。人間は愚かで弱く、そして何よりも悍しい。
見開いたぎょろりと動く歪な狂気の眼に宿るそれは、敵意や憎悪の類とは異なる甘美な誘惑──邪悪と卑猥な好意を孕んでいた。口を大きく横に裂いてはずるりと舌なめずりに露になる長い舌が、部屋中に張り巡らされた好奇の目に向けて一層煽る。新種の生命体とでも思っているのか。下らぬ興味を示す者達が、ヤツの異常さに引き寄せられて自らを晒しに来ては廃になる。自業自得に愚か者とは相応しい。
異なる種族であることはとても大きく種を隔てる絶対的なものであり、交わることはあっても混じり合うことは決してなく、同等の価値観を得られなければ悔いを負うか否定か拒絶しかない。ヤツは交錯する。外的は虫けらの如く排除して、獲物を求めて彷徨うことは何より当然だと考える──否、本能で感じ取っている。自分が恐れられているのは人間にとっての外的であるからこそ。恐れられれば恐れられるほど、酷く、堪らなく快感を得られた。
野良狗は嗤う──自身を征服できる者などいないと。
殺したがりの眼は語る──堪らなく喰らいたい。
渇き切った喉を潤してくれるのは血腥い泥水と、空腹には剥ぎ取ったばかりの新鮮な馳走だけだ。
きしりと歯を擦り合わせ、地を這うも甲高い声の音を上げて嗤い出す表情は悪意に満ちる。ヤツの中には黒く淀む世界がある。興味を惹いた者だけが味わわされる格別な妄執は藻掻けば藻掻くほど獲物を縛め、捕えれば嘆いても蟻地獄のごとく無情にも呑み込んでいく。そのたびにヤツは、猥雑な舌なめずりに陶酔境に浸るのだろう。
だが満足はしない。“欲”は底無しなのだ。終わりが無いから欲しがり、終わりが無いから深くなる。更なる深みは更なる欲を産み、最後には貪り尽くして骨まで残らない。それは薬切れの中毒者のごとく半狂乱になるより、充満した狭い密室空間で絶頂を迎えて狂喜する愚者の様に莫迦げているが何より分かりやすく、単純な生き物の本質であると言えるだろう。
長い年月餌を取らず空腹に腹は鳴る。それすらヤツは愉しむのか──定期的に与えられる食事を摂ろうともしない。
美食家は常に新鮮で活きの良いものを好む。狩りを愉しんでこその馳走はその時ばかりしか口に出来ない貴重なものなのだ。ただ喰らうだけならその辺に転がる腐りかけの犬や猫の死骸で済ませればいい。美食家は面白くないからそれを好まないし、口に合わないと言う。ヤツなりの拘りだ。
そしてまたひとつ無駄な犠牲になる。生き物が生き物を──“生き物”として生かすためにその手で罪を産み重ね葬っていく。いっそのこと見世物にでもして一種の遊戯として魅せれば最高だろう。
ヤツもまた私利私欲の渦にいる。薄汚い臭気は何処までも漂ってくるものだ。だからこそ居心地は悪くないし厭きもない。ただ、それはほんの一部の逸楽でしかないのだ。持て余した暇を潰すだけの宴は、子供のお遊戯の様に無邪気の上で残酷だ。
ただの無空間である四角い箱の中で、ヤツは相も変わらず。張り付く観衆のぎらついた目は細部に至るまで嘗め回すようにヤツを見ている。ヤツには聞こえる。精密な機械音とともに発せられる愚者どもの腐った息遣いと声。待ち続けている期待に弾む心臓の鼓動が耳障りなほど鬱陶しい。
恍惚の表情で嗤うヤツの様子に、好奇心踊る観衆は身を震わせ息を呑む。悪性腫瘍に畏怖の念を抱きながらも反応があるだけ同時に期待も込み上げる。ヤツは望まれているのだ。いかれた観衆は歓喜と狂気に溢れ、己の過ちに気付くことなく罠の中で喘いでは、ヤツの暇潰しのメインディッシュを飾る恰好の餌食となる。結果が知れているからこそヤツは従順でいる。ひっそりと息を潜めながら、絶好の機会を窺っている。
取れかかった薄汚い包帯がぷつりと切れた。曝け出された本能は煉獄を思わせ、真っ赤な海に浸り染まったヤツは底から咆哮しながら、飢えた獣の姿をまざまざと見せつけた。
警告はなされた。
耳を劈くほどに轟くサイレンが赤い光を放つ。
黒い狗はその牙をもって静寂を引き裂いた。