天白文庫
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DOLL

BL/純愛/R指定




黒のメサイアと仮面のご主人様 第三幕




 翌日。午後七時。
 店の看板に明りが灯り、「DOLL」は開店まで三十分を切っていた。控室ではS役、M役共に客を受け入れる準備に取り掛かっており、そこには赤月の姿もある。
 昨晩、赤月は主人によって気絶するまでイかされ、目が覚めたときにはその主人が使うベッドで朝を迎えていた。体は綺麗に洗浄されており、身体には真新しい寝巻きを着せられていた。辺りを見渡せば主人の姿はなく、代わりに書置きが残されていた。
『午後までよく休んでおけ。オーナーには伝えてある。またな』
 それだけの短い言葉だったが、赤月の心を満たすには十分な気持ちだった。
 優しい主人に仕えられたことを心から喜び、感謝する毎日。そしてそれが永続的に続けばいいと、今はそれだけが唯一の望みだった。
 だが、少し気がかりがある。昨夜、キョウは確かに具合が悪そうな素振りを見せた。すぐに平然と振舞ったが、実際は体調が優れないのだろう。自分の失態の所為で呼び出され、さらに身体を悪くしていたらと思うと、胸が痛い。
 仕事に集中しなければと何度も気を引き締めるのだが、どうしても心配でならなかった。
 ため息を吐きながら、放り散らかされた小道具を片付けていると、元気で明るい声が自分を呼んだ。
「ド〜ル〜。これ、新しいのに替えてくれるか?」
 そこには、水鏡に続いて人気を博するM役の青年、ライがいた。
 彼は赤月同様華奢な体躯だが、身長は赤月の頭一つ分は高い。歳も赤月より少し上だろう。
 青が好きなのか、ブルーに染めたショートヘアに、目には同様のカラーコンタクトレンズを装着、コスチュームもライトブルーのノースリーブにジーンズを穿いている。
 また、端正な顔立ちであり、爽快感のある笑顔が魅力の彼は、その実快楽にとても弱く、また様々なプレイを積極的に楽しむため、特定の客も作らず、揉め事もなく、仕事に励んでいた。
 また人懐こく、気兼ねしない彼の性格はこのアンダーグラウンドでは新鮮であり、その人気に拍車を掛けている。
 レストである赤月にも周りと同様の態度で接するため、対面時には動揺していた彼も、次第に慣れていったのか、今では思わず笑みを零してしまうほどである。
 キョウには言えなかったが、やはりレストである彼への対応は、あのマドカを筆頭に厳しかった。露骨に非難する者はいないが、やはり快く思えないのだろう。用件のある時以外、彼に声を掛ける者はいなかった。
 それもあってだろうか、赤月にとってライの存在は大きく、心安らぐ相手だった。
 赤月は腰ポケットからいつものようにメモパッドを取り出した。
〈かしこまりました。ライ様〉
 迅速に応対したつもりだった。なのに、ライの表情は険しく、眉間に皺を寄せている。何か失態をしたのだろうか、と。赤月は不安になった。
 だが、次の瞬間、彼は頬を指でポリポリと掻きながら照れくさそうに笑った。
「その、様ってやめてくれないか? むず痒くってよ。あと、かしこまりましたっていうのも。な〜んか重くってよ。恥ずいっつーか、慣れなくてな」
 同じスタッフなんだから、敬語はやめようぜ、と。ライは人懐こい笑顔を向けた。
 しかし、赤月は戸惑った。ならばどう接すればいいのだろうかと、わからなかったのだ。考え込む赤月に、ライは慌てて付け加えた。
「そう難しく考えんな。俺はお前を困らせたいわけじゃねぇんだ。んと、そうだな。そう! 俺はそのまんまのお前と付き合いたいんだよ」
 そのままの自分と付き合いたい。いったい、それはどういうことだろう?
 長年、自分を抑えつけて生きていた赤月には考えられない台詞だった。そしてそれを、ライだけでなく、別の誰かも言っていたような気がした。
「お前のご主人様……キョウ、だっけ? そいつも言ってねぇ? そのまんまのお前がいい、とかさ」
 赤月は思い出した。確かに、キョウは会うたびに隠すなと言う。
 口を開くことにしても、感情にしても、何にしても。そのままの自分を出せばいいと、まるで呪文のように囁いた。
 そして昨夜、バスタブの中で射精をさせられたことに対し、自分は主人の前であるまじき態度をとったのだ。なのに、彼は自分を罰しなかった。それどころか、優しく声をかけ、傷だらけの身体にキスをしてくれた。
 それを、キョウは望んでいるのだろうか? そして目の前の彼も、望んでいるというのだろうか?
「少なくとも、俺はそっちの方が嬉しいんだけどな。お前だって、そっちのほうが楽じゃないか?」
 ライは赤月を安心させるように優しく諭す。
 相変わらず、キョウ以外の前では前髪で目元を隠している赤月は、さらに顔を隠すように下を向いて、メモパッドに返事を打ちこんだ。
〈極力、改善します。ライさん〉
「いや、さんもいらないんだけどな……さんきゅ!」
 やはり堅苦しい台詞を目にして苦笑するライは、赤月を責めなかった。そして先ほど頼んだ物を彼から受け取ると、ライはポケットに仕舞い込んで、歌うように公言する。
「ま、徐々に慣れてけばいいさ。俺ら親友だし〜? な?」
 沈黙。
 赤月に確認を求めたつもりだったが、言葉は返ってこない。否、彼から声は求めていなかったが、メモパッドでの返事も、ジェスチャーでの相槌もない。
 ただ口を閉じて、佇んでいるだけで、何も反応がなかった。そしていつのまにか、周りには赤月以外誰もいなかった。
「え、俺はそう思ってるわけだけど、お前はそう思ってない……のか? もしかして? うそっ!? ライちゃん悲しいっ!」
 ライは両手で顔を覆い隠し、わんわんと声を上げて泣き出した。
 一方で、まるで時間が止まっていたかのように硬直していた赤月は、その様を目にしてハッと我に返った。
 そんなことを言われたのは初めてだった。親友の意味がわからないではない。だが、それを実際、自分に向けてくれる者はいなかった。
 同じ境遇のレストでさえ、口にした者はいなかったというのに、センターの者が自分をそう思っているなど、信じられないことだったからだ。
 親友。その言葉が魔法のようだった。
 慌てて返事を打とうとするも、手が震えて言葉にならない。いや、そもそも何を打てばいいのかがわからない。この感情を、どう表せばいいのか、思いつかない。
 とにかく、ライを悲しませたくない。その一心で、今頭の中にある言葉を全てメモパッドに羅列した。
〈ごめんなさい! s、俺を友ダチだ、と言ってくれる方…は初めてなnで戸惑ってしまっtて、ごめmなさい!〉
 文章も碌に成り立たないまま、彼は確認もせず、真っ先にライにそれを見せた。
 頬を真っ赤にして、口をぎゅっと固く引き締める赤月から、真摯な気持ちが伝わってくる。目元が隠れていても、それはわかった。
 ライはそろりと顔を上げ、メモの内容を確かめると。
 途端プッと吹き出した。
「あははっ! んだよ、文章できてねーじゃん。テンパリすぎ! おもしれぇな、ドールは」
 声を上げて思い切り笑うブルーの青年に、赤月は戸惑い、自分が打ったメモの内容を確かめる。すると、おもしろいほど一瞬で、彼の首までが赤色に染まり上がった。
 クスクスとまだなお笑い続けるライは、それ以上は可哀想だと思ったのか、ネタばらしをする。
「うそうそ。ジョーダン。悲しんでねぇよ」
 穴があったら入りたい。そんな気持ちを抱えつつ、どうにか言葉を返してみせる赤月のその様が、ライは素直に可愛いと感じた。
〈本当ですか?〉
「ホント。マジ、マジ」
 普段通りの笑顔を向けるライを見て、赤みの引かない顔のまま、赤月も小さく微笑んだ。
 そして、ライは頭を掻きながら、しかしいつになく真剣な表情で、言葉を紡いだ。
 「俺さ。ドールたちが受けてきた境遇はわからねぇから、言っていいことと悪いこともわかんねぇんだ。だから、お前を傷つけることもあると思う。困らせることなんて、しょっちゅうだ。でも、ドールのことは好きだから、ドールの友達だったらいいな、って思っててさ……そういうの、嫌じゃなければ、いいんだけど」
 駄目か? と、彼は尋ねた。
 赤月は即座に首を横に振って、今度は落ち着いて言葉を返した。
〈とんでもございません。嬉しいです〉
「ホントに?」
〈はい。嬉しいです〉
 にっこりと笑ってみせると、ライは実に嬉しそうな声を上げた。
「へへっ♪ じゃ、これから敬語ナシ! 決定な!」
 ポンと肩を叩かれる。赤月はさっそく困った。しかし、目の前の彼はキラキラと目を光らせて答えを催促する。
「ナ〜シ! OK?」
 返事は?
 赤月は必死に頭を振り絞った末、人差し指と親指で輪っかを作ると、それをライの目の前に翳してみせた。
 おっけー、と。
「グ〜ッド!」
 ライはビシッと親指を立てた。
 なんだか少し気恥ずかしかったが、嫌な気持ちではない。赤月の心の奥は、カッと火照るように熱くなった。
 そしてその余韻に浸っていると、突如、氷のように冷たい美声が自分たちの前に落ちてきた。
「おい、何をしている。騒がしい」
「あ、水鏡。おっは〜」
 黒のゴシックタイプのミリタリースタイルで控室に入室した水鏡に、ライは手を振って挨拶する。水鏡様と、ほとんどのMたちが崇拝する中、やはりライだけは皆に対する態度と同様だった。
 だが、それは水鏡も同様であり、ライに至っても皆と同じく冷徹に接した。
「お前、また仕置きをされたいのか?」
「げっ! もうそんな時間?」
 壁に掛っている時計に目をやれば、もう開店まで五分もない。ライの顔面から血の気が引いていき、自身のカラーリングと同様になった。
 そして非情にも、それに追い打ちをかけるように、水鏡はさらりと言い放つ。
「可愛がられたいなら、好きに焦らせとけ。そうだな、あと一時間は待たせてやったらどうだ?」
「やだやだやだ! 俺、スカは好きじゃねぇんだよ! あの客、わかってて浣腸してきやがるんだから……ちくしょ〜!」
「仕方ないだろう。相手はサディストだぞ」
「うへ〜」
 本気で嫌がる表情を作る彼は、腰を折って項垂れた。そしてその体勢のまま、のっしのっしとまるで牛のような重い足取りで、控室から退室しようとする。
 しかしふいに、彼は肩を叩かれた。振り返れば、赤月がメモパッドを翳していた。
〈がんばって〉
 声無き声援に、ライは腹の底から声を上げた。
「おうよ!」
「浣腸をか?」
「なわけねーだろ! ドール大好き!」
 水鏡の馬鹿野郎—! と。彼は告白と捨て台詞を残してその場から去って行った。
 賑やかしいのが出て行き、部屋は赤月と水鏡の二人きりになる。
 それはしんと、水が打ったような静けさだった。少しばかりの緊張感が、赤月の中で張り詰める。そしてフッと、視線がこちらに落とされた。
「で、お前は何をしている?」
 水鏡は特に迅速さを求める。赤月はさっと頭を切り替え、問いかけに答えた。
〈後片付けをしています〉
「おそい。さっさと済ませろ」
 そう言われても仕方がなかった。ライにかかっていたとはいえ、手が止まる理由などなかったはずだ。業務を怠っていた事実は否めず、赤月は水鏡向かって深々と腰を折る。
 そして作業の続きを開始した。
 水鏡はといえば、まだ客が来ないのか、控室のソファに腰を下ろすと、コスチュームを着たまま目の前のテーブルに置かれている雑誌を手にした。
 が、どれも興味がなかったのか、結局はそれらを放って足を組み、瞳を閉じた。
 仮眠するのだろう。赤月はなるべく音を立てないように作業に取り掛かった。
 赤月は水鏡を見た。
 今は自分と水鏡の二人だけ。声を掛けるのも、頼みごとをするのも、今しかない。そう確認する。
 たとえ、レストと蔑まれようとも、詰られようとも、構わない。キョウの事だけがただただ心配でならなかった。
 作業を中断し、赤月はぎゅっと拳を握りこむ。心臓は尋常でないほど激しく動悸し、額からは汗が迸る。レストにとって、願いを口にすることは、勇気なしではできない行為だった。
 メモパッドに自身の願いを要約した文章を二度確認し、息を大きく吸い込んだ。
 大丈夫、と自分に言い聞かせ、眠る水鏡の下へ歩み寄る。
 一歩、二歩と。水鏡に近づいた。そして三歩目にして、彼の心臓が高鳴った。
「キョウ」
 水鏡が、赤月を鋭く睨んでいた。
 蛇に見込まれた蛙。
 赤月はその場で硬直した。
 そんな彼から、水鏡は視線を逸らさず、冷たく言い放った。
「言っておくが、オレはお前の従者じゃない。頼みを聞いてやるほど、お人よしでもないんだ。下らない用なら、それまでだ。さっさと持ち場に戻っておけよ」
 それだけ言って、水鏡はソファから立ち上がる。時間なのか、控室を後にしようとドアへと向かった。
 しかし。
「なんだ?」
 赤月が目の前に立ち塞がってそれを阻んだ。
 はぁ、と溜息をつく水鏡に、赤月の肩は大きく震える。それどころか、両足も震えあがっており、立っているのがやっとのように見える。
 それでも、赤月はそこをどこうとせず、願いを要約したメモを彼に見せた。
〈キョウ様のお加減が気になります。どうか、少しでもお休みなさるようお伝え願いないでしょうか? 俺に出来ることなら何でもします。お願いします〉
 手の震えが止まらない。今にもメモパッドがその手から滑り落ちそうな、そんな様子だった。
 本心では、キョウに会いたかった。会うためにはこの目の前の男の許可が必要だ。
 しかし、それは己の不安を拭う為の、ただの自己満足に過ぎない。自分が会いに行ったところで、何がどうなるわけでもない。それどころか、迷惑かも知れない。そもそも、地上では飼えないから、自分はここにいるのだ、と。様々な想いが彼の中では駆け巡った。
 そして、考えに考えあぐねた末、自分が出した結論。それが今の願いだった。
 頭を下げるしかできない。そんな自分が歯がゆかった。
 水鏡はしばしメモの内容を眺めた後、赤月に視線を落とした。
 水鏡からは赤月の頭部しか見えない。だが、それを詰るでもなく見つめた後、呟くように確かめた。
「伝えるだけでいいんだな?」
 赤月はバッと頭を上げ、水鏡を見上げた。やはり冷やかに見下ろす水鏡だったが、赤月は懸命に首を縦に振った。
「わかった」
 紡がれたのは了承の一言。赤月は泣きそうになった。しかし込み上げる涙を堪え、急いで感謝の気持ちをメモに込めた。
〈ありがとうございます〉
 すると、水鏡は柳眉を顰めて赤月に尋ねた。
「何の礼だ」
 しかし、苛立ちを含んだ口調にも、赤月は気にせず答える。それは水鏡を呆れさせるものだった。
〈俺の願いを聞いてくださったからです〉
「まだ実行したわけじゃない」
〈それでも、聞いてくださいました。水鏡様は、俺の主人と同じように、俺を優しく扱ってくださいます。俺は、それが嬉しいんです〉
 厳しいが、水鏡は優しかった。
 レストだからと、普通ならこんな願いも聞いてはくれない。だが、彼はそれを聞いてくれたのだ。
 ライと同様、自分を差別なく扱ってくれる存在だった。
 だが、水鏡はそれを拒んだ。
「やめろ。オレはお前に、優しくしたつもりはない。それにお前の主人も……」
 吐き捨てるように紡がれるその言葉が、どこか憂いを帯びているように感じた。
 水鏡は断言する。
「ただ自分のためにお前を利用しているだけだ。勘違いするな」
 水鏡の目に嘘はなかった。今まで、様々な主人に仕え、常に目の色を伺っていたこともあり、それが嘘か本当かの真偽を見抜く術は培われていた。
 だからそれが真実だとわかったとき、赤月はフッと微笑んだ。
〈それでいいんです〉
 そう答えると、水鏡の目は驚くように見開かれた。
 それでいい。主人のために利用されていなければ、自分がここにいる意味がない。そして今、主人の代弁者でもあるべき人物からはっきりと断言されたのだ。その言葉を耳にして、赤月は自分が役に立っているのだと認識する。心から安堵した。
 赤月は水鏡に再度頭を下げる。心からの感謝をこめてそうしたのだ。
 すると突如、上で水鏡が笑ったかのように感じたため、上体を起こせば、彼の手によって顎を天へと固定される。無理やり上げられたことに驚きを隠せないでいると、長い前髪を掻き分けられ、素顔を晒される。
 真っ赤な双眸が直に目の前の水鏡を映し、また彼の漆黒の双眸に貧弱な自身が映し出された。
 彼とのあまりの相違に、なんだか自分を恥ずかしく感じ、ポッと火が灯るように頬に朱が走る。
 できれば今すぐにでも顔を隠したかったが、水鏡がそれを良しとはしない。上を向かされたまま、どうすることもできずに、赤月はただ水鏡を見上げていた。
 そして水鏡は、戸惑う赤月の顔を黙って細見すると、何を思いついたのか、妖艶かつ不敵に微笑んだ。
「お前、いい顔をするな。ショーに出してやろうか?」
 意味がわからなかった。目の前の男は自分に対し、いったい何を言ったのか。赤月はもう一度、脳内で男の言った台詞を再生する。
 ショーとは自分の知る限りでは、ここ「DOLL」で行われるSMショーの事である。そこへ、こんな見栄えもない自分を出そうと言うのか。信じられないと、赤月は大きな目をさらに瞠らせる。
 だが、水鏡は極めつけとばかりに言葉を付け加えた。
「お前の主人の代わりにオレが調教してやると言ったんだ。主人のためなら何でもするんだろう?」
 そして、赤月の腰に手を回し、するりと臀部を撫であげる。
 突然の水鏡の行動に驚くあまり、赤月は身体を強張らせた。そして思わず制止しようと、臀部に回された彼の手を取ってしまう。
 だが、抵抗もむなしく、赤月の細い手は水鏡の片手によって難なく封じられ、そのままドアへと身体を押しやられてしまった。
 何をされるのかはわからない。
 だが、これから起こることは決して好ましくないものだということだけはわかってしまった。
 不安が過る。恐怖が襲う。
 せめて何をされるかだけでも尋ねようとメモパッドを利用したかったが、それは必要ないとばかりに、水鏡によって取り上げられ、ソファへと放られる。
 そして僅かに割り開かれた自身の両足の間に、水鏡は自身の右足を割りこませると、そのまま赤月の股間に抑えつけた。
「ひっ」
 思わず上がる小さな悲鳴を、赤月は両手で抑えこんだ。
 すると水鏡は占めたとばかりに、赤月の腰に手を回して、彼の身体を完全にドアへと抑え込んだ。これで完全に逃げ場を無くした彼を、さらに恐怖へと誘う言葉を囁きかけた。
「いい顔をするじゃないか。素質あるよ、お前」
「んっ」
「なぁ、いつもキョウにはどうされてる?」
「ひっ!」
 低いバリトンは赤月の鼓膜へと直に響いた。背筋がゾクゾクと凍るように寒くなるのを、赤月には抑えられなかった。
 しかし、水鏡は容赦なく、彼の耳を声で犯し始めた。
「抵抗しないのか? 嫌なら、抵抗すればいい。できるだろ? それとも、男だったら誰でもいいってわけか?」
 レロリと、唾液をたっぷりと含ませた、真っ赤な長い舌で耳介を舐めあげられる。ザラリとした感触が、なんとも言えない刺激を赤月に与え、思わずぎゅっと目を瞑ってしまった。
 そして生温かいそれは、無防備な赤月を犯そうと、今度は耳孔に侵入させる。
「んっ……ふっ……」
 クチュ、クチュ、という卑猥な水音が彼の鼓膜を襲う。恐怖しか感じさせないはずのそれは、なぜか身体の芯を熱くさせた。
 ずくん、と昨夜散々主人によって弄られたというのに、再び熱を帯び始めた自身に情けなさを感じてしまう。
 いや、それどころか。
「抑えんなよ……結構可愛い声じゃないか」
「やっ……んっ……」 
「キョウから可愛がられてるんだろ? アイツにはどんな声を聞かせてる?」
 グッ、と股間に押さえつけられる水鏡の足が、焦らすように小刻みに動かされる。そのたびに、感じてしまう自身に哀しくなり、淫乱だと思わざるを得なかった。
「んんっ……あっ!」
 ズボンの前がキツくなる。冗談ならばもう止めてほしいと、赤月は心の中で訴えた。しかし、その言葉が水鏡に届くはずもなく、それどころか、彼は右手を腰から離すと、赤月のツナギの前を開き出した。あまりにも手際よく開かされ、そして晒されたのは無数の傷跡を残す白く薄い胸板と、その上に薄紅に色づく二つの突起。
 そして、無数に散っている紅の斑点。
 水鏡は彼の耳元から顔を離すと、赤月の身体を見下ろした。そして興味深そうに目を眇めてみせる。
「ふぅん。なかなかに艶っぽいじゃないか」
「ふっ……やっ」
 口元を抑えつつ、ふるふると首を振って見せるも、水鏡の行為は止まない。彼は赤月の色づく小さな粒に触れ、指の腹でくりくりと擽った。
 すると、昨夜よりも強い刺激が全身に走り、抑えられない声が手の中でくぐもった。
「んんっ、んぅ……」
「おいおい。感度良すぎだろ。もう尖ったぜ?」
「ん……!」
 尖った突起をキュッと爪の先で摘ままれ、痛みと快感が同時に彼を襲った。
 キョウによって散々弄られ、普段よりも敏感になっているのを赤月は知らず、狼狽する。
 主人以外の者に触れられ、快感を覚える身体に泣きたくなるほどの衝動が彼を悩ませ、混乱させた。
 慕っている者以外でも反応するような身体だっただろうかと、自分の浅ましさを痛感する。
 そして確定的な一言が、彼の胸を突き刺した。
「淫乱だな。お前」
「んっ……ふっ、ぅ……」
 唐突に、涙が毀れた。
 どんなに詰られようとも、どんなに貶されようとも、どんなに蔑まれようとも平気だったはずなのに、どうして心が溢れそうな気持になるのか。
 わからない。しかし、これだけはわかった。
 キョウ以外の者に触れられても、自分の身体は悦びを覚えるのだと。
 そんな厭らしい身体の従僕など、主人は軽蔑するだけだろう。
 彼を想う資格など、自分にはないのだと、涙が毀れた。
 自分に腹立たしい気持ちと、悲しい気持ち、そして快楽にあっさりと負ける悔しい気持ちが相交じり、心が破裂する。
「うっく……ふっ……」
 なんと情けないのだろう。水鏡にしてみればただの遊びのようなものだ。
 それなのに、自分のことで頭がいっぱいで、あまつさえ泣いてしまうとは。成人もしているというのに、子どものように嗚咽を漏らして泣きじゃくる。
 逃げたい。ここから今すぐに逃げ出したい。しかしそれは叶わない。
 ならばせめて。逃避ができないのなら、せめて顔を隠したかった。こんな弱い姿は、主人にも、目の前の男にも、誰にも見せたくはなかった。
 なおも溢れ続ける涙に、止まれ、止まれと、自分を戒めるが、身体は言うことを聞いてはくれない。それどころか、さらに涙が溢れてくる。赤月は唇を噛んだ。
 カリッと、肉を裂く音がする。
 途端、口の中いっぱいに、鉄の味が広がった。
 痛い。痛い。イタイ。
 痛いのは嫌いだ。一番嫌いなものだ。例え、慣れてしまっても、赤月が一番嫌うものだった。
 でも今、彼を襲う痛みは、切った唇でも、昔受けた仕置きの傷でもない。
「ひっぅ……んっ……っく……」
 心が、痛い。
「チッ!」
「ふ……んんっ!?」
 ふいに赤月の両手が、押さえていた口元から強い力で離された。
 身体軽くなるような浮遊感と、痛みを伴う唇に触れる温かい柔らかな感触。
 涙でぼやけた目の前には、水鏡の顔があった。
「うっん……ん……」
 柔らかく、ぬめった何かが口腔内を蹂躙する。そして鉄の味しかしないはずの口の中に、ミントの香りが広がった。
 いったい、何が起きている? 赤月には理解ができなかった。
 苦しい。上手く息を継ぐことができない。
 だが、温かかった。
「んぅ……ぁっ……ん、ふ……」
 赤子をあやすような、慈しみすら感じさせる何かに、赤月の瞳から流れる涙は自然と治まった。
 不思議な安堵感。
 それが彼の心を包み込み、苛む思いも、混乱の渦も、蝕まれた痛みですらも、浄化のごとく消えていった。
 くちゅ、という水音とともに、水鏡の顔が離れていく。呆然とした目で彼を追えば、なぜか困惑したような表情でいた。
「泣くな」
 悲痛そうにも聞こえたその一言の後、再び水鏡の顔が自分に近づく。
 そして再び、赤月の唇に。
「ん……あ……ふっ」
 彼の唇が重なった。
「んっ……んぅ……」
 信じられないくらい優しい、そして赤月にとって初めてのキスだった。
 キョウに身体を触れられ、キスをされたことはある。しかし、唇に触れられたことだけはなかった。それを、目の前の男が奪ったのだ。
 だが、驚くくらいに自然となされた行為。そして自分もそれを理解した今、なぜか素直に受け入れることができた。
 ちゅ、と今度は音を立てて離れていった水鏡は、赤月のすっかり腫れあがった目尻に優しく唇を落とすと、彼の頬を濡らす涙を丁寧に舐めあげていった。汚れを拭いていくような水鏡のその行為に、赤月は抗議の声を上げた。
「み、水鏡さまっ……き、汚い……です、から……あの、やめっ……んっ」
「煩い」
 しかしそれを止めようとすると、水鏡に唇を塞がれる。
「んぁ……ぅ、ん……」
 窘めるためか、先ほどよりも少しだけ強引にキスをされる赤月は、ただ大人しくそれを受け入れるしかなかった。
 そして再び涙を舐めとられると、切った唇から溢れた出た血も舐められた。
 美味いはずのないそれを吸いつくように舐めとった彼を髣髴とさせるのは、空想上の生き物である、見た事もないバンパイア。それが実在するのなら、こんな感じなのだろうかと思いながら、赤月はされるがまま、じっと身体を男に預けていた。
 しばらくして、水鏡の気が済んだのか、彼はようやくその行為を止め、赤月から離れた。その表情は普段と同じく無表情だったが、何を思ったのか赤月にとって願ってもない一言を口にした。
「会わせてやろうか? キョウに」
「え……?」
「気になるんだろう? 可愛く鳴けたら、会わせてやってもいいぜ?」
 そして赤月はツナギの上から臀部をするりと撫でられると、最奥にある秘部へと指を埋められた。
「ひ……!」
 声にならない悲鳴が喉から出た。
 水鏡の言う意味がわかってしまったからだ。だが、首を縦に振ることができない。
 赤月は即座に首を横に振った。
「なぜ? 会いたいんだろ?」
「う……」
 男の言うとおり、キョウに会いたかった。だが、そうするために、男に抱かれる。赤月にとって究極の選択肢が突きつけられた。
 それならば、鞭打ちを百回と言われた方がまだマシだった。なぜなら赤月は。
「ま、処女を捧げるだけの勇気があればの話だけれどな」
 キョウから聞いたのだろうか、さらりと口にされる事実。水鏡の言うとおりだった。
 赤月はキョウに、前戯や情交に近い行為をされたことがあっても、厳密に最後までされたことはなかった。
 つまり、抱かれたことがないのだ。
 身体が震える。未知の行為に恐怖を感じざるを得ないのもあったが、単純に嫌だった。
 ではなぜ、先ほどのキスに嫌悪を感じなかったのか。疑念が頭をよぎる。あれも初めてだったはずなのに、どうして素直に受け入れることができたのか、今さらながら不思議だった。
「で? どうする?」
 迫る選択。
 赤月はぎゅっと目を瞑り、答えを出した。
「そうか……残念だな」
 実際、そう思ってはいないだろう。水鏡はあっさりと赤月から離れた。
 赤月は解放された安堵感でほっと息を吐くと同時に、断った少しの後悔で表情に陰りが指す。
 だが、それをどう受け取ったのか、水鏡はおもむろに赤月の頭に手を乗せて、くしゃくしゃと左右に動かした。
「そう残念そうな顔をするな。あの言葉はちゃんと伝えておいてやる」
 ぶっきら棒に告げられるその言葉に、赤月は破顔する。
 すると、水鏡は不敵な笑みを浮かべて意地悪そうにこう言った。
「嬉しそうな顔もするな。犯したくなるだろ……馬鹿。本気で怯えんな。お前みたいなひょろっちい奴に本気で食指が湧くわけないだろ。……だが、まぁ。なかなか可愛い声だったぜ」
 時すでに遅し。赤月は口元を手で押さえた。
 すっかり忘れていたが、主人以外の者の前でうっかり口を開き、声を出していたのだ。
 ソファに放置されているメモパッドを、慌てて取りに駈け出した。
 その背を視線だけで追った水鏡は、ふっと微笑を浮かべると、「じゃあな」と一言残してドアに手を掛けた。
「水鏡様っ」
「マドカ?」
 ガチャリと開かれたのは入室者の手によってだった。そこへ現れたのは、息をせき切らした姿のマドカだった。
 綺麗かつ満面の笑みを浮かべて、マドカは水鏡と対峙する。
「探しました〜。こちらにいらっしゃったんですね。もう、オーナーがお呼びですよ?」
「オーナーが?」
「今夜の出張サービスについてだそうです〜」
「わかった。今行く」
 水鏡は頷くと、控室から出ていった。そして彼の腕に抱きつくマドカは、彼とともにその場を後にした。
 数分後。
 コンコンと軽快なノックとともに、快活な声が飛び込んでくる。
「ドール〜! まだいるか〜? やっぱさっきの古い方を使う……どうした!?」
 プレイルームへと行ったはずのライが控室に戻って目にしたのは、床にへたり込んでいる赤月の姿だった。
 駆け寄って顔を覗き込んでみれば、なぜか目元が腫れており、しかもその顔は今までに見た事がないほど紅潮しているのだ。
「ドール? どっか痛いのか? 具合、悪いのか? 大丈夫か?」
 オロオロとたじろぐライは自らもしゃがんで、赤月の背中を摩り始めた。
  赤月はゆっくりと頭を動かし、ライを見て首を横に振った。そしてその手の中にあるメモパッドに、言葉を打つ。
〈わからないんです〉
 それを目にしたライは、首を傾げた。
「わからないって、何が?」
 しかし、赤月から後の言葉は続かなかった。
 わからない。
 どうして、あの二人が俺に優しいのか。
 どうして、あんなにも優しくしてくれるのかが、わからない。
 どうして、こんなにも胸が高鳴るのかが、わからない。
 赤月には、わからない。
 「お、おい。ドールッ。泣いてるのか? な、泣かないでくれようっ」
 時刻は、八時半。 
 まだまだ、夜は始まったばかりである。
 そして。
 この夜が、赤月の運命を大きく変えることになる。

3


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